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本屋から疎まれるベストセラー

[第179回]本屋から疎まれるベストセラー @ミュンヘン

美濃口坦 翻訳家兼ライター

Photo: Senba Satoshi

懇意にしている本屋さんの女性は「こんな本がベストセラーになるなんて不愉快」といってベストセラーのポスターを指さす。そこには2位に下がった『Hitler, Mein Kampf −Eine kritische Edition(ヒトラー、我が闘争−注釈版)』があった。入手したいという私に彼女は納期が不明だといって、在庫がある書店を教えてくれた。彼女が取り寄せるのを嫌がっているように感じた。

私の知人は別の書店で本の名前をいった途端「児童ポルノ」購入者扱いにされたそうだ。本屋が店内に置かず、取り寄せないベストセラーなど前代未聞である。

ヒトラーの『我が闘争』は1925〜26年に出版され、ドイツが敗戦するまで1200万部も刷られた。戦後は版権をもつバイエルン州が出版を禁じてきたが、ミュンヘンの現代史研究所は昔から注釈付きでこの本を公刊するべきだと主張してきた。死後70年で著作権が切れて、今年の1月に現代史研究所から刊行された。

約780頁だった原書は、再版されて2000頁に膨張し、その重さも6キロに及ぶ。こうなったのは、時代背景などの解説だけでなく、3500以上の注釈がつけられたからだ。

本を開くと、右頁の真ん中に本文が載った箇所があるのだが、その左隣の頁にも、後続する頁にも注釈が付いていて、本文の続きは数頁も先になることもある。解説も注釈も適切で好感を覚えたが、ヒトラーが悪いことをしないように「注釈」という無数の警備員に包囲されている場面を一瞬連想した。

ドイツ国民はヒトラーを熱狂的に支持したが、戦後の評価は一転して絶対悪の象徴となった。この国では、善とはヒトラーのしたことの反対になる。これは倫理的な判断基準を間接的にヒトラーに委ねることになりかねないので、思考停止でもある。いうまでもないが、彼と反対のことをしたからといって、いつも良い結果になるとは限らない。

今回の『我が闘争』の出版でこの現象が変化するなら、それこそ大きな成果だ。

『Reichtum ohne Gier(強欲にならなくても豊かさは可能)』の著者ザーラ・ワーゲンクネヒトは東独で育ち、20歳のときにベルリンの壁の崩壊を経験する。社会主義の理想を抱いていた彼女は当時悲しんだという。

その後、政治家の道に進んだ彼女ほど真剣に社会主義と資本主義に取り組んだ政治家はいないかもしれない。2008年の金融危機以来、彼女の資本主義批判が注目されてテレビの討論会によく登場するようになった。その豊富な専門的知識と明晰(めいせき)で熱心な話しぶりによって、党派を超えて多数の支持者をもつ。

彼女によれば、資本主義は、その市場競争の原理が機能し、自由な創意・工夫をうみだし、生産性を高め、経済を成長させ、多数の人々を豊かにすることができたという。しかし、21世紀に入ってこの事情が変わってきたのだという。世界的に活動し、経済力も政治力も強い企業には市場原理も適用されなくなるし、貧富の格差も拡大するばかりだ。人々は敗者にならないために、給与水準が下がっても抵抗しない。企業も投資家の利潤追求の対象でしかなくなる。こうなったのは多くの国で規制緩和や規制撤廃が実施されたからだ、との立場だ。

ワーゲンクネヒトの見解では、民主主義は相互コミュニケーションが可能な小さな単位でのみ機能できるという。それにもかかわらず国家が主権の一部を手放していくと、世界的な規模で民主主義が空洞化するばかりだと彼女は心配する。国境を超えて市民団体が協力してコントロール機能を発揮しても、グローバル企業の強力なロビー活動には対抗できない。

彼女がこう考えるに至ったのは、2004年から5年間欧州議会の議員を務めてブリュッセル生活を送ったからかもしれない。テクノクラートとロビイストの街、ブリュッセル。一説には、EU本部のあるブリュッセルでは、議員1人当たりのロビイストの数がベルリンの二倍半もいるという。

このような事情から、彼女は、資本主義の暴走を阻止しようとするならば、国家を出発点にするしかないと提案する。少なくとも、欧州の国ならば、選挙が実施されて、国民は意思を表示できるからである。

…………

国家が重要だという見解なら、『Wunschdenken(希望的観測)』も似ているかもしれない。独連邦銀行の理事だった著者ティロ・ザラツィンによると、ドイツ人は政治となるとユートピア志向になる。これは現実否認で、本の題名もこれに由来する。この傾向はドイツの欧州統合観にも難民政策にも反映されているという。

著者にとって単なる「希望的観測」にとどまらないためのモノサシは、「国益を見失わないこと」であるようだ。だからこそ、移民問題では、どうせ外国人を入れるなら、アラブ人でなく、教育を重要視する東アジア人のほうが国益になると著者は主張する。

国益を主張する本が売れるのは、ユートピア志向のこの国では、従来はそれがタブーとみなされてきたからかもしれない。

ワーゲンクネヒトの本とはかなり趣を異にする本書である。


ドイツのベストセラー(ノンフィクション部門 )

5月7日付 Der Spiegel紙より


1.Wunschdenken

Thilo Sarrazin ティロ・ザラツィン

移民問題で挑発的な本を書いた著者があるべき政治の姿を説く。

2.Hitler,Mein Kampf- Eine kritische Edition

Christian Hartmann u.a.(Hg) クリスチャン・ハルトマン その他編

現代史家の詳細な注釈がついたヒトラーの『我が闘争』の再版。

3.Das geheime Leben der Baume

Peter Wohlleben

自然林を理想とする著者が生きている樹木について語る。

4.Himmel,Herrgott,Sakrament

Rainer M. Schiesler ライナー・M・シースラー

カトリック神父がビールを飲みながらする率直なお説教。

5.Panikherz

Benjamin von Stuckrad-Barre B.シュトゥックラート・バレ

若くして成功した作家がコカイン中毒後久々に発表する自伝。

6.Der Appell des Dalai Lama an die Welt

Dalai Lama ダライ・ラマ

宗教より思いやりにもとづいた倫理こそ21世紀には重要。

7.Reichtum ohne Gier

Sahra Wagenknecht ザーラ・ワーゲンクネヒト

左翼政党の人気政治家が暴走する資本主義を診断し対抗策を論じる。

8.Finger weg von unserem Bargeld!

Peter Hahne ペーター・ハーネ

500ユーロ札廃止で本格化する現金ナシ社会に反対する情熱の書。

9.Gelassenheit

Wilhelm Schmid ウィルヘルム・シュミット

老いていく人が持つべき「落ち着き」とは。

10.Zwischen zwei Leben

Guido Westerwelle/Dominik Wichmann ギド・ウェスターウェレ/ドミニク・ウィヒマン

病で死を前にした前独外相が公私にわたって人生を語る。