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仕事と私生活を分ける-ドイツ人のメンタリティー(4)

概要

どこの国でも仕事と私生活は区別されているが、ドイツでは特に徹底している。そのため、ドイツで働く外国人にとっては心理的に困難な面もあるようだ。また、文化的な背景から仕事をするに当たって重点の置き方が異なることも心得ていた方が、不要な誤解や感情のもつれを前もって避けるのに役立つかもしれない。

 

スマートフォンを手にしている人の姿は、今やどこの国へ行っても目にする。しかし、スマートフォンを使っているだけなら「ながら族」とはいえない。そう呼ぶためには、本来するべきこと(例えば仕事)があり、それをしながらスマートフォンでメールを読んだり返信したりしていなければいけない。ドイツで有名な「ながら族」はメルケル首相である。議会で野党の政治家が演説を始めると、彼女はスマートフォンを取り出し、何かし始める。退席しない以上、彼女は演説も聞いているはずである。

前回の「タイムマネジメント-ドイツ人のメンタリティー(3)」(2017年4月11日付掲載)で記したように、多くのドイツ人は複数の仕事を同時にするマルチタスクが苦手で、モノクロニック的に課題を一つ一つ順番に片付けていく。でも多数の人がメルケル首相のように「ながら族」になると、マルチタスクも得意になり、ドイツ人の仕事の段取りも、またタイムマネジメントも変わるかもしれない。

現在、ドイツで仕事と関連してスマートフォンの「ながら族」が問題視されるのは、職場でのミーティングのときである。200社の人事部長を対象としたあるアンケート調査では、半数以上が「ミーティング中にメールチェックをし、返信までする人がいる」と回答。「これを不愉快と感じる」との回答は40%で、「何とも思わない」との回答は14%にとどまった1。すぐに回答したいメールもあるという点を考慮し、コーヒーブレークに倣って「メールブレーク」の導入を実施した職場もあるそうだ。

議論がこのレベルにとどまる限り、モノクロニック的に課題を順番に片付けていくドイツ人の仕事の進め方が変わるようには思えない。ドイツ人がモノクロニック文化に属する重要な背景の一つは、どうでもいいことを聞き流したり、見過ごしたりしておくことができないことである。しかし彼らもスマートフォンによる「ながら族」を続け、外界からの刺激にさらされていると、長期的にはこの点も変わるかもしれない。

スマートフォンが仕事に及ぼす影響について「ながら族」のことよりも活発に議論されることがある。それは今回のテーマとも関係がある。ドイツでは仕事と私生活とを切り離して、両者の間に関係が生まれないようにするメカニズムが働くことが多い。しかし携帯電話やスマートフォンの登場によって、職場を離れても仕事と私生活を切り離すことが難しくなっている。これは今、労働組合などが頭を悩ませている問題でもある。

仕事と私生活を切り離すメカニズム
「タイムマネジメント-ドイツ人のメンタリティー(3)」(2017年4月11日付掲載)の中で、部下のドイツ人と仕事の後に食事に行きたがる中国人上司の例を挙げた。彼は何度も暇がないと断られるうちに、部下がそんなことを言うのは口実で、真意は自分と近い関係になりたくないからではないかと疑うようになる。
この例に関して、予定表を埋めることに努めるドイツ人のタイムマネジメントをその原因として指摘したが、この中国人上司の疑いも全く間違っているわけではない。でもそれは、すでに述べたように仕事と私生活を切り離すメカニズムが働いているためだと考えることもできる。

日本をはじめ多くの国では仕事の後、職場の同僚同士で酒場や飲食店に出掛けて飲食を共にする。そこで仕事や同僚の話をしたり、時には上役の悪口を言ったりする。このような付き合いの習慣はドイツではあまり見られない。彼らは軽々しく同僚を誘うこともないし、誘われても応じない。そうであるのは、この国の人々に仕事と私生活とを切り離すメカニズムが機能しているからである。
ドイツの企業で同僚との個人的な接触を望むのは、多くの場合外国人で、ドイツ人から相手にされないのが普通である。大きな社員食堂で1人だけでぼそぼそ食べていると、話し掛けてくれるのは外国人の同僚であることが多い。

これまで繰り返してきたが、ドイツの職場で「人間関係は二の次」であるのは(「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載))、私的領域こそ個人的な関係を持つ場所だと考えられているからである。この国の人々にスモールトークや世間話を職場で避ける傾向があるのは、このようなコミュニケーションが私的なものと位置付けられていて、仕事の場にふさわしくないと思われているからである。

別人のようになる
このような事情から、職場で何年も一緒であっても同僚はあくまでも「仕事の同僚」にとどまり、距離を保って付き合うため、人間関係は普通あまり深くならない。これはドイツ人には当たり前のことだが、外国人の中にはこの点を気にする人もいる。以下の例もそのことを示す。

例1:勤務後も自分を覚えていてくれる
あるチェコ人の男性は、プラハで働いている。彼にはドイツ人の同僚がたくさんいて、彼らとの関係は良好であり、また個人的に好感を覚えないでもない。とはいっても彼らとの関係は仕事の間だけに限定されている。長年同じ職場にいるのだが、仕事が終わった後、これまで一度も一緒にビールを飲んだことがない。彼によると、ドイツ人の同僚との素晴らしい関係も帰宅の途についた途端終了するという。

例2:別人のようになる
ドイツで暮らすあるブラジル人の例である。彼には、仕事の上でよく関係を持つドイツ人の同僚がいた。そのブラジル人は彼に好感を覚えていたが、もう何年も知っているというのに、彼と自分の間の距離が縮まらないことに不満を覚えていた。ある日、そのブラジル人は彼とスカッシュをする。驚いたことに同僚のドイツ人は別人のようになった。いつも物静かなドイツ人の同僚は元気に大声を出し、冗談を言う。また彼は勝とうとして挑んでくる。こうして2人で楽しんだ後、一緒にビールを飲んだ。そのブラジル人は、ようやくこのドイツ人の同僚と打ち解けることができたと喜んだ。

翌日出社したそのブラジル人は、そのドイツ人の同僚に会って喜び、前日のスカッシュのことで冗談を言った。しかし彼は全然乗ってこない。「今からミーティングがあり、準備しなければいけない」と言う。また元の同僚に戻ってしまったようで、そのブラジル人はどう考えていいのか分からず途方に暮れた。

例3:自宅に招待されたポルトガル人
ドイツの本社で働いているあるポルトガル人のエンジニアの話である。ドイツ人の同僚は仕事熱心で尊敬できるだけでなく、本当に親切である。とはいっても、いつまでたっても人間同士の「温かい関係」にならない。ある日、そのポルトガル人は同僚の1人から自宅に招待される。奥さんの手料理を振る舞われ、子どもたちとも遊んだ。仕事と関係のある話はせずスポーツをはじめいろいろな話をし、楽しいひとときを過ごすことができた。彼は、この同僚と親しくなれた気がした。

ところが、翌日の職場でのドイツ人の同僚の様子は全く違うのである。その同僚はいつもと同じように親切であるが、個人的な話題は一切避ける。前の状態に戻ってしまったようだ。そのポルトガル人は今でもその同僚が「外国人に親切であるべき」という義務感から自分を自宅に招待してくれたのではないかと疑っている。

以上の例から分かるようにドイツの場合、職場での同僚との関係は私生活での知人・友人関係に発展しにくい。そうであるのは、すでに述べたように仕事と私生活を切り離すメカニズムが作動するからである。ドイツ人は私生活の世界を持っているので問題がない。一方、そうでない外国人はドイツ社会を自分が育った国の社会と同一視して期待感を抱くものの、失望することが多い。個人的な交友関係を求める人に勧められることは、昔から決まっている。それは、どこの町にもある同好会や講習会への参加だ。どちらも仕事とは無関係な場で、趣味や関心が共通する者同士が定期的に会う以上、個人的な友好関係が生まれるのには理想的な環境といえる。

仕事と私生活を切り離すメカニズムが働いている以上、ドイツの職場では、同僚については名前、独身か所帯持ちか、サッカーファンかどうかといった大ざっぱなことしか知らないのが普通である。職場では、従業員の私生活にあまり立ち入るべきでないとされている。次の例もこのような事情を示す。

例4:病気見舞いの電話をした日本人上司
ある日本人上司は、部下が病気で3日間出勤しなかったので、彼の家にお見舞いの電話をかけた。電話に出てきた部下は上司の気配りに感謝する様子もなく、自分は規則通りに診断書を付けて病欠届けを提出していると答え、取り付く島もなかった。その日本人上司は部下の病状を心配して電話をかけたのに、自分の善意が理解されないことに驚いた。

ここまで、ドイツ人には仕事と私生活を切り離すメカニズムが機能すると述べてきた。しかし、いつもこの説明通りになるわけでない。それは職場での男女関係である。文化的問題を克服するのが異文化研究の目的であるためか、この例外的な現象はあまり注目されない。ハンブルクの世論調査機関ゲーヴィスによると2、全体の18%、つまりほぼ5人に1人は同僚とそのような関係を持ったことがあり、またそのうち4人に1人の割合で結婚につながった。

他の国の数字がないので、このようなことがドイツでは多いとはいえないかもしれない。しかし本来、男女関係は仕事でなく私的なことである以上、仕事と私生活を切り離すメカニズムが働いて、上記の数字が低くてもよさそうな気がしないでもない。このような事態は、熱心に働くドイツ人のイメージに反するかもしれない。しかし、もし企業側が経営的観点からこのような傾向にブレーキをかけようとすると、労働組合や裁判所を敵に回さなければいけないかもしれない3

完璧に役目を果たす
多くの国で、従業員に私生活において十分休息してもらい、またフラストレーションを解消し、元気になって再び職場で働いてもらうことが期待されている。この点についてはドイツも同じである。ただし、仕事と私生活を切り離すメカニズムが強力に働くためか、人々の意識の中で両者の世界が対称になっているように思われる。例えば、きちんと働いている人々は休暇もきちんと取るという考え方がそうだ。

ということは、職場で力いっぱい仕事をすることと、私生活の世界でも頑張ることは対応しながら釣り合いを保っているので対称関係になっていることになる。似た関係を指す言葉として日本にも「よく遊び、よく学べ」がある。日本の「猛烈サラリーマン」の中には休みの日に自宅で過ごさず、難度の高い登山や岩登り、山スキーなど余暇を「猛烈に」過ごす人も少なくない。反対に、このような休みの日の過ごし方に眉をひそめる人は、人間の総エネルギー量が限られていて、休暇の方にエネルギーが使われたら、その分だけ仕事にエネルギーが回らないと心配しているのかもしれない。

ドイツ社会で離れ離れの二つの世界、仕事と私生活は異なった尺度、論理や性格を持っている。前者は公的世界で、仕事中心であるために、例えば下降気味の売り上げに知らん顔していることができないという意味で、客観的事実や合理性が重要である。そこでは各自が大抵は自分に与えられた仕事をしている以上、それぞれ自分の役割を果たしているだけである。

ドイツでは、仕事の世界で感情をあらわにするのは自制心に欠けるとされ、人間として弱いと見られかねない。もちろん規則や秩序、また契約が守られなかったら彼らも怒るが、それでも職場ではできるだけ自制することが期待されていて、感情表現は許容される枠の中に収まっていないといけない。この結果、職場では大声は聞こえないし、これまで何度も触れたように雑談もしないので、職場は本当に静かである。感情をあまり表現しないため、別の文化圏の人にはいつも不機嫌だと誤解されることもある。

一方、私生活の世界の方では、役割でなく個人としての人間関係が支配的であるために、情緒的な表現を制約する枠はない。ただし職場では感情を抑える傾向が強いためか、極端から極端に走り、隣国の人々に情緒過多とか自己憐憫と感じられることもあるようだ。

例5:会社に忠実
あるチェコ人が働いていたチェコの企業は、1990年代にドイツの企業に吸収合併された。彼は現在もその企業に在籍しており、長年、その企業の浮き沈みを経験した。吸収合併後、重要な事業分野が閉鎖された。しばらくして別の企業と合併し、その後間もなくそれまで重要とされていた別の事業分野も整理された。そしてそれ以降も、似たようなことが繰り返された。そのたびにそのチェコ人は、これも市場経済で仕方がないと思っていた。
ところが、彼らのドイツ人上司はいつも「こうなったのも、私たちに起こり得ることの中では一番良いケースのように思われる」と言う。このドイツ人上司にとってもこれらのリストラは不安で厄介なことであるにもかかわらず、彼は自分が勤める会社に対して忠実で、いつも肯定的な発言をする。ドイツ人上司のこのような態度を、そのチェコ人は理解できないでいる。

そのチェコ人はリストラを肯定できないが、これも市場経済で仕方がないと諦める。そのドイツ人上司については、本社の命令に従い、仕方なしにやっているように思えなくもない。とはいえ、このチェコ人が奇妙に思うのは、このドイツ人があまりにも上司としての役割を見事に演じるために、その背後にある人間としての悩みが全く伝わってこない点である。こうであるのは、このドイツ人に仕事と私生活を切り離すメカニズムがすっかり身に付いていて、彼自身に単に役目を果たしているだけだという意識があまりないからだ。
欧州の中でドイツ人というと優等生タイプばかりだとか、また人間味が感じられないとか文句を言われることがあるのも、似たような事情からであろう。

フォーマルVSインフォーマル
仕事と私生活を切り離すメカニズムと関連して重要な区別がある。それは、ドイツ人がフォーマルな場合とそうでない場合を厳格に区別する点である。前者は社内的なルールや秩序に従って正式なものと承認されている場合や状況である。そうでない場合はインフォーマルである。

コミュニケーションを例に挙げれば、ミーティングや会議がそうだ。多くの場合、職場にはそのための空間が設けられており、会議室とかミーティングルームと呼ばれている。社内基準があって、そこでの発言や議決は後で管理できるよう記録されていなければならない。ITが発達した今では、プロジェクトによって社内にそのためのメーリングリストが設けられることも多い。

ドイツでは、このように社内において正式なものと承認されているのがフォーマルなコミュニケーションの場であり、公式チャネルである。そうでないのはインフォーマルな場合で、私生活の一部に準じるものであり、そこでの発言は「私語」に近い。重要な地位にある人、例えば、ボードメンバーが社内のベランダで何か発言しても、公式チャネルを経由していない以上はインフォーマルにとどまり、重要視される度合いは別の国よりはるかに低い。

ドイツの組織では、インフォーマルなチャネルが公式チャネルの代わりになることはない。例えば、社内で序列の高い人から何かするように言われても、部下として公式チャネルを通してもらいたいと期待するのが普通である。紹介者やコネはインフォーマルなチャネルである。いろいろ面倒な思いをしてそのようなルートを使っても、話は結局、公式チャネルに回されるだけである。企業をはじめ多くの組織は、諜報(ちょうほう)機関や軍事関係の組織でもないので、公式チャネルについて外部の人が聞けばすぐに教えてくれるのが普通である。

以上は通常の業務のときのことであり、何か企業に突発的な事態が発生して公式チャネルが機能しなくなったときにはインフォーマルなチャネルが使われる。しかしこれまで何度も強調したように、ドイツ人は可能な限り不測の事態を避けようとして準備する。

次の例は通常業務のケースである。社内の廊下で小耳に挟んだことであろうが、あるいは社外の誰かが通訳を介して言ったことであろうが、話が公式チャネルに入ってこない限り、組織からは無視される危険があることが分かる。

例6:伝達は正式に
あるドイツ企業とポーランド企業の関係が難航している。その理由は、ポーランド企業からいろいろな情報と書類がドイツ企業に出されることが取り決められていたにもかかわらず、実行されないからである。ところがそのポーランド企業によると、ドイツ企業の主張は不当であるそうだ。というのは、求められたものは全部いろいろな機会にドイツ企業の関係者に伝えたり、渡したりしたからである。ところが、ドイツ企業側はもらっていないと言い張る。これは、そのドイツ企業がポーランド企業から受け取ったことを忘れたり、理解できなかったりしたからだという。それに対して、ドイツ企業は取り決めにある順番通りに渡すよう要求し、そうしなかったポーランド企業には、プロ意識が欠如していると非難する。また、ポーランド企業の方もそのドイツ企業を傲慢(ごうまん)だと応酬する。

そのドイツ企業にとって、正式に伝達されず公式チャネルに入ってこない情報はきちんと存在していないことになる。とはいってもこれはドイツ企業側の内部事情であり、本来、ポーランド企業にその内部事情が知られていることを期待することはできない。にもかかわらず「プロ意識の欠如」を難じるのは、そのポーランド企業も自社と同じように組織されていると勝手に思っていることになるという。奇妙なことに、そのポーランド企業の主張も似たような話で、ドイツ企業も自分たちと同じように機能すると思い込んでいる。

これは「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載)の冒頭で指摘したように、他人を見ていると思っているが本当は鏡の中の自分の姿を眺めているのに似ていて、典型的な文化摩擦といえる。異文化研究の成果によって売り上げを増大させることはできないが、それでも不要な誤解や厄介な感情のもつれを前もって避けるのに少しは役立つかもしれない。

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1 http://www.faz.net/aktuell/beruf-chance/arbeitswelt/smartphone-besprechungen-unerwuenscht-13418669.html
2 http://www.tagesspiegel.de/weltspiegel/beziehungen-am-arbeitsplatz-gelegenheit-macht-liebe/1641530.html
3 http://www.geocities.jp/tanminoguchi/20050621.htm

※本記事は、特定の国民をステレオタイプに当てはめることを意図したものではありません。

M305-0042
(2017年5月27日作成)

欧州 美濃口坦氏

話すだけでなく理解するために-ドイツ人のメンタリティー(5)

概要

ドイツ人と接するときには、自分の意見をはっきり言わないといけないといわれる。その理由は、彼らが言外の意味にあまり関心を向けないコミュニケーション文化を持つためで、そうであるのは彼らの倫理的理想と無関係ではないようだ。この点を承知していると、ドイツ人の言動も理解しやすい。連載の最終回。

 

今や海外旅行など珍しくないが、飛行機代がむやみに高かった戦後の日本での話である。ドイツへの渡航を前に緊張する人には、いろいろ助言が与えられた。例えば、英語の「イエス/ノー」はドイツでは「ヤー/ナイン」になるが、同意していなければ、はっきりと「ナイン」と言わなければいけないと忠告された。またドイツ人女性が「ナイン」と言ったら本当にそうで、自分の都合の良いように考えたらとんでもないことになると脅かされた男性もいた。

異文化研究ではコミュニケーションに関連して、低コンテクスト文化と高コンテクスト文化が区別される。ドイツは前者の低コンテクスト文化の、日本は高コンテクスト文化の代表国であるといわれる。ここでいうコンテクストとは、発言(テキスト)そのものではないが、それに付随するものである。日本語では文脈と訳されるが、異文化研究においてはその意味はもっと広い。その場の状況やその前後の事情、話し手の身振りや声音、目つきだけでなく、知識や記憶、また感じたり考えたりしていることまでいろいろなものが含まれる。

低コンテクスト文化とは、コンテクストの重要度が低く、言語で表現された部分(テキスト)が重視される文化である。上記の例でいえば、ドイツ人が「ナイン」と言ったらこの発言が重要視されるべきで、自分に好意を持っているとか、親切そうだったといった要因(コンテクスト)ばかりを重視して、脈があると思うのはとんでもない誤解になる。

反対に、高コンテクスト文化の日本人は、気が進まない顔(コンテクスト)をしていれば、相手の方もそのことを分かってくれていると思いがちである。ところが、このようなことは低コンテクスト文化のドイツ人に対しては通用しない。というのは、彼らはコンテクストにあまり注意を向けないからである。彼らにとって重要なのは言語で表現されたテキストの方で、だからこそ、念のためにはっきりと「ナイン」と言った方が良いという助言につながる。

はっきりと言うべき
低コンテクスト文化の国はドイツだけでなく、欧州ではスイス、オーストリア、英国、オランダや北欧諸国、また米国、カナダ、オーストラリアなどもそうであるとされる。ドイツは、自他共に認める低コンテクスト文化である。高コンテクスト文化は日本だけでなく、欧州ではフランス、また南欧・東欧諸国がそうであるとされる。アジア、アラブ諸国、アフリカ、南米諸国なども高コンテクスト文化であるとされ、数からいうとこちらの方がはるかに多い。だからこそ、ドイツで日本人と似たような体験をする人も少なくないのだろう。

例1:「ナイン」と言い損なう
ポーランドに進出しているあるドイツ企業での話である。新しく導入されたソフトウエアについて勉強するために、5人のポーランド人グループが来た。ドイツ企業側の担当者は、勉強ばかりさせるのは良くないと思い、3日目に古い街並みの残る隣町へ連れていって、少し見物した後にビアガーデンへ行き、一緒に夕食を取ることを予定していた。ところが、当日午後6時に待ち合わせの場所に行ったところ、ポーランド人は誰も来ていない。心証を害したドイツ企業側の人たちは、翌日ポーランド人たちと話し合う。彼らにとって連日朝から晩までの勉強は、慣れない英語で説明されることもあってハードである。そのため、当日ドイツ企業側から頭痛薬を提供してもらった人が出て、午後には体調を崩して退席し宿舎に戻った人が2人も出た。このような事情から、勉強の後の街の見物とビアガーデンのプログラムなどが実行されるなどとは考えてもいなかったという。

ポーランドはドイツと地続きであることもあって、(昔の日本と比べて)ドイツ人に対して異文化意識が希薄だったのかもしれない。低コンテクスト文化とは、相手(ポーランド人)の置かれた立場といったコンテクストにあまり注意が向けられない文化である。だからこそ、ドイツ企業側にはポーランド人が街を見物したりビールを飲んだりする気分にあるかどうかといった考えに思いが及ばなかったのかもしれない。また、このような行き違いは「タイムマネジメント-ドイツ人のメンタリティー(3)」(2017年4月11日付掲載)と「仕事と私生活を分ける-ドイツ人のメンタリティー(4)」(2017年6月13日付掲載)で触れたように、立てた予定は実行しないと承知できないことや、メッセージが正式のチャネルを経由しないとドイツ企業側に届きにくいこととも無関係ではない。

例2:気持ちをくんでくれない
ドイツで暮らすある米国人女性の話である。彼女は愛用している携帯オーディオプレーヤーの調子が悪いので修理しようと思ったが、そのためには小さなねじ回しが必要になる。そこで百貨店の時計売り場へ行き、そのようなねじ回しがあるかどうか、どの売り場へ行ったら買えるか聞いた。ところが、時計売り場の担当者は自分のところにも百貨店のどこの店にも売っていないと答えるだけであった。彼女は、時計売り場のドイツ人が気を利かせて街のどこで必要なねじ回しを売っているかという程度の情報を教えてくれると期待していたので失望する。

この話も、多数の例外があるにしても、ドイツでは尋ねられたことに答えるだけで、話し手の願望にまで注意が向けられにくいことを示す。一方、この米国人女性も自分の知りたいことを明確に尋ねるべきだったと思われる。ドイツでは、何かしてほしいことがあれば、その気持ちを察してもらうことを期待しないではっきりと要求しなければならないといわれるが、彼女は素っ気ない問答に意気消沈してそれができなかったことになる。ドイツでは、厚かましいくらいの方が良いのであって、控えめとか慎み深さとかいったことは理解されにくい面もある。例3が示すように、遠慮することも事態を複雑にするだけで面倒なこととされやすい。

例3:遠慮が理解されない
外国人のためにドイツ語の授業をするだけでなく、ホームステイの世話までする、ドイツのある語学学校での話である。一般的にドイツのメインの食事は昼食で、夕食はパンとソーセージやチーズで簡単に済ませる。この語学学校では、食事代もホームステイ料金に入っている。しかしあるとき、中国人の参加者から食事が出されなかったという抗議があった。調べてみると、ホームステイ先の家庭のドイツ人が夕方帰宅した中国人の研修生に食事を取るように勧めると「気を使わないでほしい」といった意味のことを言われて断られたという。そこで、一度だけでなく何度も食事を勧めるようにしたら、このような行き違いがなくなったという。

例4:なぜ会社を辞めるのか?
チェコにある子会社でマネジャーを務めるドイツ人の話である。彼は、仕事に満足していると思っていたチェコ人スタッフが、どういうわけか突然会社を辞めたと嘆く。そこで第三者に調べてもらうと、会社を辞めたチェコ人は、数カ月前から転職しようと思っていたという。その理由は職場の雰囲気が悪く、ただ単に働いているだけになってしまったからだという。

ドイツが低コンテクスト文化圏である以上、話し手のチェコ人は自分の願望や感情、自分の置かれた立場といったコンテクストが配慮されることを期待せず、(ドイツ人の側から見れば)不満があればはっきりと言うべきであるということになる。しかしそう言われても、高コンテクスト文化圏の人間にとって、それはそう容易なことではない。

ここまで例として挙げたのは、ドイツ人が話し相手のコンテクストをあまり理解できない場合であった。しかし厄介な点はそれだけでない。それは、ドイツ人が発言したときに自分の方のコンテクストをあまり考慮しないことである。上司が部下に何か言ったときには、同等の立場でないが、このコンテクストを忘れて発言だけに集中してほしいといわれても、高コンテクスト文化の住人には難しい。

裏表がないこと
このように考えていくと、高コンテクスト文化圏の出身者にとって、低コンテクスト文化圏の出身者とのコミュニケーションは面倒なことのように思われるかもしれない。とはいっても、両方の文化を比べた場合、ドイツのような極端な低コンテクスト文化圏の出身者にとっての方が、問題ははるかに大きいかもしれない。
彼らは発言(テキスト)そのものを言葉通り受け取るように言われ、そうしていればよいと思って育った。その結果、これまでに挙げた例が示すように、話し相手に対する理解不足に陥る危険がある。下手をすると相手を怒らせることもあるかもしれない。ところが、そのことにあまり気づかないでいる場合もある。

反対に、高コンテクスト文化圏の出身者は、話し相手の心理や習慣などのコンテクストが重要であると分かっている以上、他の高コンテクスト文化圏の出身者とコミュニケーションを図った場合、より慎重になり学習能力を持つ可能性が高い。また、低コンテクスト文化圏の出身者と接した場合はもっと楽である。相手が発言(テキスト)を重視することを求める以上、相手の置かれた立場や習慣、心理について変に気を使わなくても済むといえるからである。このような事情から、低コンテクスト文化圏の出身者の方が外部の人に溶け込みやすいとされている。

ドイツの低コンテクスト文化では、自分の思っていることを話し、その通りに理解されることが期待されている以上、コミュニケーションに関して裏表がないことになる。そのため、真意についていろいろ思いを巡らせる必要がない。ドイツでは外交辞令も初めからそれだと分かるものが多い。
このような事情から、ドイツで長年暮らすある東アジアの出身者によると「ドイツの人々はうそをつかない。他人に言ってもいいことと、自分の心の中だけにとどめておくべきことという区別をしない。だからこそ、彼らと話をしていて、発言と真意の隔たりについて迷わなくていい。ドイツには『秘密の意図』という表現などないと私は思っている」という。ここでは本当にそうであるかどうかより、高コンテクスト文化圏の出身者がそう感じたことが重要である。

ドイツ人とミーティングをしていて、出席者の1人が延々と話し始め、何のために話しているのか理解できないことがある。ドイツには「アダムとエバ(イブ)から始める」という慣用句があり、なかなか核心に到達しない長話を意味するが、この表現通りだと思われる。

この「長話現象」も、ドイツが低コンテクスト文化で、話し手が自分の話すこと(テキスト)に気を奪われて、聞き手にどのように受け取られるか(コンテクスト)をおろそかにしがちな証拠ということもできる。そのために、特に高コンテクスト文化圏の出席者には時間の無駄のように感じられるかもしれないが、ドイツ人からはあまり気にされない。この反応の違いは、ドイツ社会での言語の在り方と関係があるかもしれない。

ドイツでは、口頭であろうが文書という形を取ろうが、言語で表現することが盛んである。これは量的な意味でそうであるだけでなく、この国の多くの人々の倫理観の根幹と関係する。地球上にはいろいろな文化があって、親戚になることによって人間同士の信頼関係が生まれると思う人もいる。また中には、温泉へ一緒に行って「裸の付き合い」をすることが信頼関係を深めるという国もあるかもしれない。一方ドイツでは、一緒に風呂に入らなくても、たくさん話すことによって信頼関係を築くことができると考えられている。ということは、言語活動こそ、人間関係の基盤と思っているところがあるのではないかと考えられる。

ドイツ式低コンテクスト文化で信頼関係を築くために重要なのは、裏表のないコミュニケーションである。職場というテーマから少し外れるが、この国で人生の伴侶を見つけた人の言葉には「パートナーと何でも包み隠さず話すことができる」というものが多い。一方、世界には、本当に重要なことは言外にあり、それが言語で表現された途端、価値が失われるとされる文化もある。ドイツの低コンテクスト文化はこれとは正反対で、お互いに正直に話し合い、そこに価値ある人間同士の絆が生まれると見なしていることになる。

ディベート社会
このように言語表現が重要視される社会では、無口な人はどのように扱われるのだろうか。理屈から言うと、影の薄い人になってしまう。だからこそ、昔の日本人はドイツに渡航するに当たって「断固と自己主張しないといけない」と助言された。けんか覚悟で反撃に転じてまともに扱われるようになる体験は、ドイツで暮らす外国人にとって「通過儀礼」の一つとされる。次の例も、このような事情を示す。

例5:こうして一人前になる
あるドイツ企業で人事課長を務める英国人の話である。かなり前から部下の1人がことあるごとに自分を批判する。それも挑発するようにである。その英国人は、初めは知らん顔をしていることにしたが、部下の批判がだんだんエスカレートするので、何か断固とした対抗措置を取って反撃しなければいけないと感じていた。

そのうちにその部下から電話があった。彼はいつもと同じで、いろいろなことに文句をつけ、上司である英国人の態度を非難する。その英国人は待ちに待った逆襲の日が来たことを感じて、少し間を置いてから、声を荒げて「自分の言ったこと、したことは、今でも正しかったと思っている。今からあなたに対しても指摘させてもらう」と述べて、これまで言い損なっていたことを怒鳴るように一つ一つ指摘した。英国人は言うべきことを言い終わったところで一息つき、部下からの凄まじい反撃を覚悟していたが、拍子抜けした。というのは「これでとうとう知り合いになれた。これからはちゃんと議論できる」と部下のドイツ人が言ったからである。

日本をはじめ東アジアの人々は、ドイツ人同士が議論を始めると、その攻撃的な雰囲気のためにいたたまれない気持ちになることもあるようだ。低コンテクスト文化の英国人も似たような経験をするところを見ると、ドイツでのコミュニケーションの在り方は、低コンテクスト文化圏の中でもかなり特別であるのかもしれない。

問題や過ちに気づいたらそれを指摘し、その原因を分析して議論をするということはどこの社会にもある。ドイツでは、既に触れたように徹底的に話し合うべきだとする理想があるために、このディベート志向に拍車が掛かる。また超低コンテクスト文化であるために、議論の本来の目的や意図、自己顕示欲や心理的葛藤といったコンテクスト要因が強く意識されない結果、直面する問題の解決より原因解明の方が優先されることもあるといわれる。

ドイツで働くあるポルトガル人によると、彼の国でこのような口論をしたら、一生恨まれることを覚悟しなければいけないという。高コンテクスト文化の日本人の目にも「しこり」が残るように思われることがある。この点に関して、ドイツには「これはあなた個人に向けられたものではありません」といった意味の決まり文句がある。また、批判に耐える「プロ意識」を持たなければいけないことも強調される。でも、そのようなことを言うのは、低コンテクスト文化圏のドイツでも挑発的で攻撃的に見える議論が感情的「しこり」として残ることを意味する。

とはいっても、このような事情と高コンテクスト文化における議論の在り方を同列に置くことはできない。「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載)や「仕事と私生活を分ける-ドイツ人のメンタリティー(4)」(2017年6月13日付掲載)で示したようなメカニズムが働いて、感情的「しこり」が職場に限定される仕組みになっているからだ。

ここまで、ドイツ社会の人々が発言(テキスト)の内容に集中し、自由に自分の見解を述べて議論になるという低コンテクスト文化的側面を強調してきた。とはいえ、ドイツの職場においても必ずしもそうでない場合もある。例えば、話し手と聞き手の間で序列が離れていたり、個人的関係があったり、社内政治と関係したりすると偏向することがある。また、雇用の不安定さや出世のために「風見鶏」や「ヒラメ人間」が出てくるのも避けられない。

以前、筆者はギムナジウム(大学へ進学する中・高等学校)で半年あまり国語の授業を受け持ったことがある。授業は議論を通じて学習させる方式であった。ドイツ語が母国語でない日本人教師に親しみを感じたせいか、ドイツ人実習生の授業ではあまり発言しない生徒も活発に議論に参加し、指導教官からよく褒められた。

議論が重視されるドイツ社会では、雄弁な人が組織の上の方へ行くことが多い。しかし、発言能力と思考能力はいつも一致しているわけではないので、口達者ばかりが発言しているうちに組織にとって重要な発想の転換の機会が失われてしまうことも少なくない。その後もいろいろな組織と接して、なるべく多くの人に発言させようとする傾向があるのに気づくたびに救われた思いがした。

ここまで5回にわたって、ドイツ人のメンタリティーについて取り上げてきた。もちろん、個人、地域、階層による差があり一般化できないというのは一見正しい。とはいっても東アジアをはじめ他の地域や欧州の隣国と比べると、ドイツ国民に固有の性格があることは否定できないと思われる。日本人がビジネスの上で関係するドイツ人を頭に浮かべて書いたこともあって、ここに書いたものは、どちらかというと教育水準が比較的高い人々の間でよりはっきりと観察される現象である。

※本記事は、特定の国民をステレオタイプに当てはめることを意図したものではありません。

M305-0043
(2017年7月3日作成)

タイムマネジメント-ドイツ人のメンタリティー(3)

  • 発行:2017/04/11

概要

仕事と時間に関する異文化研究では、仕事を一つずつ順番に済ませるのを好むモノクロニックな文化と複数の仕事を同時にできる文化が区別される。ドイツ国民は前者の代表といえる。苦手なマルチタスクをしないで済ませ、強い秩序志向から予想外の事態をなくそうとしているうちに、予定表をいっぱいにする独特の時間管理の文化を生み出した。

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前回の「秩序とルールの尊重-ドイツ人のメンタリティー(2)」(2017年4月5日付掲載)で、ドイツ人の秩序尊重について述べたときにうっかり忘れたことがある。それは彼らの整頓好きである。ドイツの工場を訪れて整理されているのを見て感心する外国人は少なくない。また、ドイツ人主婦の台所も見ただけで分かるといわれる。というのは、整然としていて料理をした痕跡がないように見えるからである。昔、ドイツの女性は料理が嫌いで台所をろくろく使わないからだ、と真顔で説明する中国人の女性がいたほどである。

もうかなり前のことだが、私はドイツ人の同僚の整然とした机を見て、自分の机の上が雑然としていることに驚いた。また子どもの頃、部屋の中を散らかったままにしてよく叱られたことが思い出された。そしてずっと後になってから、ドイツに長年暮らすあるハンガリー人から、ドイツ人の机が整頓されている理由を聞いて少し気が楽になった。というのは、個人の資質だけでなく文化的要因も重要な役割を演じるからである。

「ながら族」が苦手な人々
そのハンガリー人の説明は、米国の文化人類学者エドワード・T・ホールが時間と仕事について指摘した二つのタイプの文化と関係がある。それは「モノクロニック(単一時的)文化」と「ポリクロニック(多元時的)文化」である。分かりやすくいうと、前者はドイツをはじめ北欧、北米、西欧の国民で「ながら族」が苦手である。反対に後者は南欧、東欧、アジア、南米、アラブ、アフリカなどの国民で「ながら族」が平気な、いわばマルチタスクができる人々の文化だ。

前者のモノクロニック・タイプは、Aの仕事を始めたらそれに集中し、それが終わったらBの仕事に移り、それを終了させたら初めてCの仕事に着手するといった具合に、順番に仕事を済ませていく。ということは、同僚のドイツ人はいつも一つのことしかしていない以上、机の上は散らかりようがないと、上記のハンガリー人は笑う。

反対に、後者の「ながら族」が平気なポリクロニック・タイプの方は、例えばAの仕事を始め、それが終わっていないのにBの仕事を始める。そうなったのは、緊急の電話がありBの仕事が必要になったからだ。Bの仕事はそう簡単に済ませられないので、いったん本来のAの仕事に戻る。その後また別件が発生し、今度はCの仕事に着手する。そして、それが終わっていないというのに催促があってBの仕事を再開し終了させる。
ポリクロニック文化圏のそのハンガリー人は、自分がしていたのは、この例に近いという。そして(ドイツ人の同僚と異なり)自分が同一の時間帯にいろいろなことをしている以上、机の上が散らかってしまうのも当然だとする。

そしてこのハンガリー人は、予想外のことが発生し、臨機応変な対応が必要になる状況に直面していることになる。これは、前回の「秩序とルールの尊重-ドイツ人のメンタリティー(2)」(2017年4月5日付掲載)で述べたように、不測の事態を避けるために完璧な準備をするべきとするドイツ人が尊重する秩序に反し、本来あってはならない状況である。ということは、A、B、Cと仕事を順番に片付けているのは、完璧な計画を立案し、計画通りに仕事が進んでいるという話にならないか。

エドワード・T・ホールはモノクロニック文化の国民について「一度に一つのことをする彼らは、多くのことを一度にしなければならなくなると途方に暮れる」1と述べた。ドイツ国民には、このマルチタスクは特に大変なようである。
ドイツ労働総同盟は2015年に4,900人を対象に、どのようなときに時間的ストレスを感じるかというアンケート調査2を実施した。この調査によると、時間的ストレスを感じる理由として「同時に複数の仕事をさせられること」を挙げた人が最も多く65%もいた。こう回答した人の半分以上は「マルチタスクのために、仕事から頭を切り替えて落ち着いて余暇を過ごすことができない」と嘆くほどである。

次に「人員があまりに少な過ぎる」という回答は63%で2番目に多い。これはリストラに対する反応で「昔は5人でやっていたのが、今では3人しかいない」という話はよく語られる。
3番目に多い回答は「計画になかった仕事がさらに出てくること」で61%もいる。A、B、Cという順番に仕事を片付けることができなくなり、A´とかB´といった仕事が生じることになったようである。これもモノクロニック文化の仕事の仕方に合致しないことで、こう考える人々が「仕事のために予定された時間が短か過ぎる」(54%)、「顧客の過剰期待」(41%)、「上司からの圧力」(35%)よりも多いのも注目に値する。

以下に挙げるのも、ドイツ人がマルチタスクが苦手であることを示す例である。

例1:売り損なった時計
ある日本人は時計を買おうと思っている。ところが、1人しかいない店員は先客にいろいろ助言を与えている。その日本人は買う時計をすでに決めており、乗らなければいけない列車の時刻も迫っている。彼はその旨を言いかけるのだが、そのたびに店員から「お待ちください」と言われて、自分が「割り込み」をしようとして叱られたような気持ちになる。彼はこれ以上待っていると列車に乗り損なうので店を出た。

例2:電話中で知らん顔
ある韓国人はドイツ人の同僚に用事があって彼の部屋に行く。同僚のドイツ人は電話をしていて、その韓国人が来たことを無視する。韓国人の方は同僚が電話を中断してあいさつすることなど期待していなかったが、それでも表情や態度、しぐさ、視線などによって彼の訪問を拒否していないことを表現できたはずだと思い、この同僚の態度にいら立ちを覚えた。

例3:仕事の邪魔をする気はないのに
ブラジルの工場で生産工程の管理を担当するあるブラジル人が本社に滞在する。彼は本社の生産ラインで知らない機械を見ると、ドイツ人の作業員に「この機械は何か?」と尋ねる。一言か二言で答えられることなのに、その作業員は仕事を中断してブラジル人に説明し始める。そのようなことが繰り返された結果、現場の責任者から正式にそのブラジル人に作業をこれ以上邪魔しないようにという警告が出された。

例1であるが「商売気がない」店員は、顧客をA、B、Cと順番に対応するように教育されたからその通りにしているだけである。この日本人が厚かましく「自分は代金を支払うだけだ」とか「列車に間に合わなくなる」とか言っていたら、事情は変わっていた可能性もある。「そんなことなら」と、店員は先客に「すぐ終わりますので」などと言って了承を得て、時計を売ることができたかもしれない。

例2であるが、電話をしているドイツ人は本当に電話に集中している。そうであるのは、モノクロニックな文化で一度に幾つものことができないからだ。ポリクロニック文化圏から来た人なら、電話中の彼らに話しかけない方がよいことを早い時期に学習するはずだ。というのは、うっかり話しかけると不快な顔をされるからである。例2の韓国人は同僚に知らん顔をされて気を悪くしているが、文化圏による違いであると理解すれば、不快な顔をされなかっただけマシだと考えることができるのではないだろうか。

例1でも例2でも誤解からドイツ人を傲慢(ごうまん)だと言う人がいるかもしれないが、決してドイツ人にそのような悪意があるわけではない。モノクロニック文化圏で育った人々はマルチタスクの能力があまり発達していないだけのことである。その点では例3も似たようなケースであるが、同時に工場の作業員がスタッフの外国人から質問されて、緊張したという側面もあるかもしれない。これらの例から、文化的相違について知っていた方が感情の行き違いを避けるためには望ましいといえるだろう。

理想の仕事
異文化研究者によると、マルチタスクが苦手なモノクロニック文化と、一度に幾つもの仕事をこなせるポリクロニック文化の相違点は、時間をどのように認識するかの違いである。モノクロニック文化では、時間は始まりと終わりがある直線として捉えられている。重要なのは、始まりと終わりがあるために時間が有限なリソースとして認識されることだ。そのため価値を持つようになり、無駄にしてはいけないもの、大切なものに「昇格」する。
時間を効率良く使おうとするなら、A、B、Cと順番に仕事を片付ける方が、A、B、Cの仕事の間を何度も行ったり来たりするより良いことになる。一つのことに集中できる方が仕事の質も向上する。

「ながら族」を厭わないポリクロニック文化では、時間は循環するものとして認識されるそうだ。例えば「春夏秋冬」は繰り返されるので時間が有限であるという発想にはなりにくく、モノクロニック文化のように慢性的な時間不足に悩むこともない。そのために、時間厳守という考え方になじみにくいともいわれる。

時間を厳守しながら効率性の高いシステムを築き、運営していくのには、西欧、北欧、北米などモノクロニックな文化の方が向いていて、資本主義の精神に近いとされる。とはいっても、日本をはじめ韓国、中国などといった東アジア圏の国民は典型的なモノクロニック文化でないが、柔軟性を持ち、効率性の高い生産体制を築き上げることに成功した。この点は特筆に値する。

時間を直線的に捉えてマルチタスクを厭うモノクロニック文化は西欧、北欧、北米の国々がその担い手であり、ドイツは本来そのような国の一つにすぎない。ところが、どこの国よりもモノクロニック文化がこの国の人々に染み込んでいる印象もあるように思われる。
例えば、ドイツのオフィス空間の主流は個室か準個室タイプである。ところが外国企業が、多数の人々が机を並べて働く大空間オフィスを導入しようとすると、ドイツではそれに対する抵抗が他の国より大きかったり、従業員が辞めたりすることもある3。確かに大空間オフィスになると、人間関係を二の次にして自分の課題に集中し、A、B、Cという具合に仕事を1人だけで順番に片付けるのは容易でないかもしれない。

このような傾向にあるドイツ人にとって、(すでに紹介したアンケート調査が示すように)マルチタスクこそ最大のストレスで、そうしないで済ませるために、a:しなければいけないことについて思いを巡らせて計画を練り、b:この計画を中断したり、邪魔されたりすることもなく実行して、c:目標を達成することこそ、最も望ましいことになる。これが可能なら、彼らは熱心に、それもコンスタントに脇目も振らず働く。例4のフランス人の証言も、仕事を順番に片付けていくことこそドイツ人の理想であることを示す一例といえよう。

例4:ドイツで長年働くあるフランス人の女性の話
ドイツで長年働くあるフランス人女性の話である。ドイツ人の仕事は丁寧であるだけではない。彼らは普通なら定刻に帰宅する。ただし、今日終了させることができるなら翌日に延ばすことはなく、少々時間がかかっても会社に残ってやってしまう。金曜日に仕事をやり残して、次の週に持ち越すことを彼らは好まない。計画を終えることができるなら、そのときは残業を厭わない。彼らにとって仕事を片付けることができたときが一番幸せに見えるそうだ。

時間管理の理屈
ドイツの人々のタイムマネジメントといわれても、彼らが時間当たりの生産性を高めるために励んでいるというより、自分たちにとって一番ストレスの少ない仕事の仕方を守るために努力しているように見えないでもない。もちろん彼らは、自分たちの仕事の仕方こそ生産性を高めるのに役立つと主張するかもしれない。

例5:会えるのは早くても3カ月先
将来、生産工程の責任者になるというあるメキシコ人は、ドイツの本社に1年間滞在することになった。彼に期待されていることは、このドイツの会社やシステムについて一般的な知識を身に付けることであるが、メキシコで製造予定の製品の潜在的な購入先であるドイツ企業とも接触しなければならない。彼はそれぞれの企業の担当者との面会を予約したが、どの人も忙しく、会ってもらえるのは最も早い場合でも3カ月先である。これを聞いたメキシコ人はすっかり面食らった。

例6:まず電話で面会の約束を
現在、ある企業のドイツ本社に滞在中のあるスペイン人は、帰国後に新しく出来上がる生産ラインの管理を担当することになっている。このプロジェクトに関係するドイツ人の同僚がリストアップされているので、滞在中に彼らに会っておこうと思った。1番目の同僚のところへ行くと、彼は驚きそのスペイン人の顔をしげしげと眺めた。そして今は時間がなく、質問に答えることなどできないとつっけんどんな態度を示した。彼はちょうど進行中の別のプロジェクトのことで誰かと議論の真っ最中で、そのスペイン人はそれ以上相手にされなかった。

その後、そのスペイン人はリストの2番目と3番目の同僚を訪れるが、事態は似たような話で、彼は失望して自分の部署に戻る。ドイツ人の同僚に相談すると、彼はまず電話をして面会の約束をしなければいけないと忠告される。彼はこの助言を実行し、2、3週間待つことになったがリストアップされた同僚と面談することができ、有用な情報を得る機会を持つことができた。しかし3カ月経過した現在でも、会っていない人がまだ残っている。

例7:トップが来るのに会ってくれない
日本のコンピューター関係の企業で働くある日本人は、ドイツに滞在し、ドイツ市場を担当している。ある日、彼は日本の本社からトップが来るという連絡を受ける。ドイツ企業と直々交渉するためである。ところが突然であったこともあり、ドイツ企業の対応者から、スケジュールが詰まっていて面談する時間がどうしても取れないと断られる。日本の本社のトップはドイツ企業側のこの態度を傲慢だと感じただけでなく、ドイツ市場を担当する自社の社員の交渉の仕方が悪かったと怒る。また担当者の方も、はるばる日本からトップが来るというのに、会う時間がないなどと言うドイツ企業側の態度をどうしても理解できないでいる。

上記の例5、例6、例7は、別の文化の出身者で外国人(メキシコ人、スペイン人、日本人)がドイツ人に会おうとするが、なかなか会えないか、全く会えないでいるケースである。外国人の方が驚いたり、気を悪くしたり怒ったりしているのは、自国であれば相手に会えるのにドイツではそうならないからである。
この三つの例に共通するのは、ドイツ人の予定がいっぱいになっていることだ。外国人たちはこの点に驚いている。ドイツでは昔と比べて予定表の空白の部分がはるかに少なくなったといわれる。これはドイツ労働総同盟のアンケート調査で触れたように、多くの組織で人員が減らされてしまったからだ。例5はこのような事情を裏付けるようにも見える。

ドイツでは、例6から分かるように、(同じ組織内でも)誰かに会おうと思うなら前もって電話し、面会を予約しなければならない。用件が簡単でないときには、電話だけでなくメールで説明するのが普通だし、これをしなければ要求されることが多い。ドイツ人が人と会うことには、例5、例6、例7に登場する外国人の出身国とは少し別の意味があるのではないのだろうか。
それまで知らない人に会うことによって、お近づきになるとか知り合うとかいう。また何度か会うことによって交流が深まり、顔なじみでなかったときよりもコミュニケーションがスムーズにでき、関係も良くなり、ビジネスの成功の可能性が高まることを期待できる。例6のスペイン人は、初めはそのような期待を持っていたように思われる。

ビジネスに関連したドイツ人の時間管理を見ていると、このような側面が全くないとはいえないが、かなり希薄であるように感じることがある。この点については「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載)で指摘したように「人間関係は二の次」で、用件の方が重要なのである。もちろん、ドイツでも面識を得ることは重要とされるが、そのためなら業界団体の催し物に出席するなどして、より適切な機会を探せばよいことになる。

ということは、ドイツでは仕事時間中に誰かと会うことを合意する以上、何か成果を得る可能性がなくてはいけないと考えられているように思われる。そうでないと、自分も会う相手も大切な時間を無駄にしていることになる。同じ理由から、会ったときのあいさつやスモールトークなどのウオーミングアップはなるべく短くするよう助言される。お金は失われてもまた稼げばいいが、失われた時間の方は戻ってこない。

誰かと会う約束をしたことは、ドイツの人々の論理では2人の人間がお互いにこの大切な時間を捧げ合うことを決めたことになる。ということは、そうなっているものを、例7のように、遠い国のトップが来るからといって反故(ほご)にするのはドイツ人にはなじみにくいのかもしれない。また、彼らは自社の対応した相手が会えないと断ったことで日本企業側を怒らせたことに気が付いていない可能性が高い。

ドイツでは、いろいろな場面でよく予約をしなければいけない。そうするのは、お互いに相手と自分の時間が大切であることを承認し合っていることでもある。例えば医師の診察を受ける場合も予約するが、割り込みを可能にするためには病状が重いなど、特別な理由を挙げてその必要性を納得してもらわないといけない。
ドイツ人の時間管理の理屈では、会うことになった以上、準備の方も行き届き、時間も取ってもらえ、真面目な意見交換ができて充実した話し合いの機会になる可能性が十分期待できる。

「時間がない」
職業との関係でドイツ人の予定がどんどん詰まってしまう状況について述べたが、この傾向は仕事に限らない。

例8:本当に暇がないのだろうか
ドイツにある子会社で管理職を務めるある中国人は、仕事が終わった後に時々、ドイツ人の部下を食事に招待したいと思っている。ところが、そのドイツ人の部下は「残念なことに今日は別の約束があって駄目です。ここしばらく毎晩予定があるのですが、来週の後半だったら空いているかもしれません」と言う。その中国人は、毎日顔を見ている部下と一緒に食事をするくらいのことで、それほど前から約束しなければならないということに違和感を覚える。そして、ドイツ人の部下は暇がないとか言うけれど、本当のところは自分とあまり近い関係になりたくないからではないかと考えるようになった。

例9:いつも何か予定がある人々
ドイツの大学で学んでいる米国人男性の話である。ゼミの後、彼はバーバラさんという女子学生を喫茶店に誘う。すると彼女は、残念だが今から乗馬の予定があるから駄目だと言う。この米国人男性によると、どのドイツ人もすでに予定が埋まっていてすることが決まっているという。彼の恋人の女性も、スケジュール表を眺めてからデートの日付と時刻を指定する。

似たような例はたくさんある。要するに、彼らはいつも何かすることになっているのだ。帰宅してから子どもの宿題の面倒を見る男性もいる。育児や家事を夫婦共同で行うというところも多い。ドイツ人は男性・女性を問わず家の修理などの大工仕事もどんどんこなす。また週末や祭日の余暇や休暇の過ごし方も活発で、予定はかなり早い時期に決まってしまう。
例8の中国人の上司から避ける意図を疑われるドイツ人の部下も、例9の米国人男性の知人も「時間がない」と嘆くが、それは本当のことであろう。というのは、自分から進んで次から次へと立てる予定によってがんじがらめの状態にされてしまっているところがあるからだ。

「秩序とルールの尊重-ドイツ人のメンタリティー(2)」(2017年4月5日付掲載)で指摘したように、ドイツの人々は不確実な未来に対して強い不安を覚えているために秩序とルールを尊重する面もあると思われる。未来が決まっていないと不安であることから、予想外のことをなくそうと努めているうちに計画好きになってしまった。ということは、彼らのタイムマネジメントとは精神的安定のためであり「時間がない」という彼らのせりふを聞いても外国人は気を悪くする必要はないことになる。

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1 エドワード・T・ホール著「かくれた次元」(1970年、みすず書房、238ページ)
2 http://www.spiegel.de/wirtschaft/soziales/arbeitswelt-jeder-zweite-klagt-laut-dgb-umfrage-ueber-zeitdruck-a-1065866.html
3 「ドイツのオフィス」(2012年11月8日付掲載)

秩序とルールの尊重-ドイツ人のメンタリティー(2)

  • 発行:2017/04/05

概要

ドイツ国民の秩序志向とルールを尊重する傾向は世界的に有名である。これは、不確定な未来に対する不安が強いことや、国民の歴史的体験と関係する。この国民性はドイツ独特の完璧主義といわれるものになり、ドイツに成功をもたらした。ただし、秩序志向とルールを尊重する傾向もそれが自己目的になると、組織の硬直化につながる危険もある。

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前回の「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載)では、職場でのドイツ人の性格に関連して、彼らにとって同僚、上司、部下との人間関係は二の次で優先するのは仕事に関連した用件であると述べた。これに関して誤解されないように強調しなければいけないことがある。それは、彼らが仕事と私生活を峻別(しゅんべつ)し、人間関係を軽視するのは前者の仕事の領域で、私生活では人間関係が重要であるということである。

今回のテーマは、欧州だけでなく世界中で多数の人が昔からドイツ人について抱くイメージである。それは彼らが秩序やルールを尊重するといわれる性格で、これは仕事の領域にとどまらず、生活全般に見られる。

決まっていないと不安
例1:駐車場
ある外国人の話である。彼が住むマンションは駐車場付きで、外部の人は使ってはいけないが、区画されていて居住者は自分のクルマを好きな場所に止めることができる。ところが、ドイツ人居住者のほとんどはいつも自分の場所を決めてそこに自分のクルマを止める。たまたま心ない居住者によって自分の「置き場」が奪われると、今度は自分も「加害者」になり、他の居住者の「置き場」に駐車する。翌日、この「加害者」が「置き場」を奪った「被害者」に出会うと言い訳をする。その外国人は、駐車場が広く、本来どこに止めてもいいと思っていたので、こうして謝られてすっかり面食らったそうだ。

駐車用の区画に居住者の名札が付いていれば本当は一番良いのだが、管理人は面倒くさがり屋らしくそうなっていない。この例から分かるように、ドイツの人々は決まりがなくて、またその必要がなくても自分の方からルールらしきものを作って自分1人で順守して秩序を保とうとしていることになる。彼らにはルールが自分の自由を制約するという考えはあまり強くない。少なくともこの外国人の目にはそう見えるという。

とにかくドイツには多数の法律や手続きがある。この国で暮らし始めた外国人は、住居が見つかったからといって喜んではいけない。というのは、居住登録から始まって、銀行口座開設、自動車免許、疾病保険、公共放送受信料支払いなど煩雑な手続きが待ち構えているからだ。「「美談」の行き先-難民の経済学」(2015年12月17日付掲載)で、この国の多くの人々が自国の首相を非難した最大の理由は何十万に及ぶ多数の外国人を手続きなしで入国させたことにある。

ドイツで生活するとは、多数のルールを守ることである。例えば、日曜/祭日は芝刈り機を使ってはいけないし、平日も午後1~3時は芝刈りをしないことになっている。また多数の客を招待してパーティーをしていると、夜中、入り口のブザーが鳴る。開けると警官が立っている。というのは、午後10時以降部屋の外に聞こえるような音量の音を出してはいけないのである。その必要があるなら、論拠を挙げて居住する町の役場に例外を認めるように申請しなければいけない。

また、子どもが学校に行かないで町の中をうろうろしていると、警官に捕まえられて学校に連行される。崩壊する家庭の増大で今や朝パトカーが迎えに来るケースも増大している。「スクールパトカー」と言ってからかう人はいない。ドイツの人々は、義務教育である以上、子どもも国家に対する義務を果たすのが当然だと考えているようだ。
ルールの尊重は、この国の人々がもめ事を恐れることと無関係でない。子どもが遊ぶサッカーボールが隣の庭に入ったといったささいな理由から裁判沙汰になり、ノイローゼ気味になった日本人の母親がいた。

次に秩序の反対とは、ルールがないか、あるいは守られなくなる場合である。秩序とは、決まりが守られている状態で、上記の駐車場の例で言えば同一の場所にいつも同じクルマが止まっていることになる。ということは、無秩序はどこに誰のクルマが止まるかがはっきりしていないことでもある。ドイツの人々は、不確実な未来に対して強い不安を覚えているために秩序を尊重することになる。このような現象はドイツ国民の歴史にその根を持つが、それについては後で述べる。

このような秩序意識は前もって不確定要因を避けようとすることであるために、欧州内ではドイツ人のすることは予想ができて面白味がないとか、創造性が欠如しているとか、保守的だとか悪口を言われることもある。欧州では昔からドイツ人の男性というと「眼鏡をかけた真面目なエンジニア」というイメージがあり、結婚相手として重宝がられるといわれた。

ドイツ的完璧主義
この秩序尊重とルール厳守から生まれるのは完璧主義である。ただし、この完璧主義は、何が起こるか分からない未来に対する不安と、できるだけ驚かされないで済ませたいという願望からでき上がったものである。なるべくリスクを最小限にし、そのための組織作りと仕事の段取りを想定して計画する。予測できないことが起こり、それを臨機応変に処理したとしてもあまり賞賛されない。準備を怠っていた結果、不測の事態を招いてしまったからで、これを回避することの方が本来重要だからである。

例2:職業の数
東アジアの政治家がドイツで職業教育関連機関を訪れた。それは、職業の現場での実習と学校での理論教育を並行にして進めるデュアル教育のレクチャーを受けるためである。彼は話を聞いているうちにこのシステムの利点について納得するが、ドイツには学校へ行って習得できる職業の数が300以上もあると聞き耳を疑う。その様子を見たドイツ側の担当者は、直ちに彼にこれらの職業が記載されているリストを渡す。政治家はページを繰りながらその数の多さにあぜんとする。

不測の事態を回避しようとするためには、発生する問題をできるだけ想定して、どんな機能(仕事)が必要になるかを前もって予想しておかなければいけない。こうして予想された仕事をする能力を持つ人材を前もって教育しておくことこそ、不測の事態に対処していることになる。

前回の「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載)の中で、ドイツの職場で上司には「部下の課題と分担を明確にすることが期待される」と述べたが、管轄は責任の所在をはっきりさせることである。下の例3もこのような事情を示す。

例3:電気は管轄外
ドイツで組み立ての仕事をするようになった英国人の話である。彼はドイツ人の同僚と一緒に現場に派遣されて、金属製電動ドアを取り付ける。取り付け終了後、そのドイツ人の同僚は帰ろうと言う。その英国人はドアを電気で動くようにしようと思っていたので驚く。するとドイツ人の同僚は「それは電気担当の同僚がする」と言って譲らない。

この英国人は、ケーブルを引いて電気でドアを動かすようにすることぐらいは組立工の自分たちにもできると思ったのかもしれない。とはいっても、この点はドイツ的秩序の根幹に関わってくる。というのは、試験によって資格を授与されていない人がやってもいいことになったら、職業教育の意味も空洞化しかねないからだ。

電気についての専門的知識を持つ人が最後の仕事をしなければいけないというのは、ドイツの人々にとって車検を受けた自動車しか町の中を走ってはいけないという話とあまり違わないかもしれない。というのは、不安を引き起こす不確定領域は専門家の管轄下に組み込まれることによって縮小していくとドイツでは考えられているからである。こうして、法律、ルール、規格、契約、約束を順守することが秩序であり、また実績のある方式であると信じられている。

「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載)で触れたように、ドイツの職場ではあまり遠慮しないで議論する習慣がある。これも組織の中で秩序とルールを尊重することと関連してコンセンサスを得るための重要な手続きである。ドイツ企業同士では問題にならないが、文化の異なる外国企業との共同プロジェクトでは面倒なことになるかもしれない。それは議論のテンポが速いドイツ側のペースで進み、すでに個々の反対意見についても説得できて、交渉も最終段階に近づいたとドイツ側に思われている頃に、突然のように外国側から疑問や心配が表明されることが時々あるからである。これは、外国側がそれまで総論に賛成し、各論についての論拠を深刻に受け止めていなかったからである。言うまでもないが、ドイツ側の失望は大きい。

組織の硬直化
ドイツ人の秩序とルールの尊重は、隣国の国民の反応と関連して触れたように保守的で、時には官僚的硬直性をもたらす。また、システムの中で専門家に重要な役割が与えられているために権威主義になり、その点がネックになったり、システムの不透明の原因になったりすることがある。

例4:契約通りでない部品
コンピューター関係のドイツ企業はアジアのメーカーから特定の形状の部品を仕入れることで購入契約を締結。ところが、納期が近づくとこのアジア企業は契約通りの形状の部品を納入できないと伝える。ただしその差異は小さく、搭載するドイツ側の機械は同じように機能することを強調する。ドイツ側もその点は認めるが、購入は拒絶する。それに対してアジア企業側は値引きを申し出るなどドイツ側の歩み寄りを期待したが、その態度には変化が見られなかった。このようなとき、アジア企業側はドイツ人を形式主義で官僚的だと感じることがある。

例5:いろいろな問題
あるドイツ企業で車軸の開発に責任を持つ英国人エンジニアの経験である。技術的問題の解決も難しく、期日を守るのも厄介で、彼の部署は超過勤務を数週間余儀なくされた。ところが、幸いこれらの問題を克服することができた。彼の上司はでき上がった車軸を点検し、印字の字体が納入先の仕様通りでないことを発見した。この英国人エンジニアによると、これも大きなミスであり訂正されなければいけないが、彼が不満を覚えたのは、数週間も彼が苦労した技術的問題と、この字体のミスが上司の頭の中で同列に並んでいるような印象を受けた点だという。

ルールや規格の尊重も時には、これらの例4と例5が示すように、自己目的になり、何のためだったかが見失われる。そうなるとルールを盾に取る既得権益維持になり、組織は硬直化してしまう。現在、ドイツ経済の評判は良い。でも、そのために忘れられてしまうことがある。それは、2000年代初頭、ドイツ経済が欧州の中で「お荷物」扱いされていた点だ。ドイツ人というとバカンスばかり取っているイメージがあった。
だからこそ、当時のシュレーダー改革が実行された。現在多くの点が改善されたが、それでも、何か必要があってドイツの会社に電話をしても誰も出ないことがある。このようなことは、組織の硬直化もあるかもしれないが「人間関係は二の次」で同僚同士の助け合いがうまくいっていないこともある。

自己責任方式
秩序やルールを尊重する社会は欧州にもアジアにもあり、ドイツだけでない。とはいっても、ドイツ国民はこの点でかなり特別である。というのは、彼らは秩序やルールに自己同一化し、それらを自分の心の中の尺度に昇格させて、自身の行動に責任を持つといわれるからだ。この責任感は職場での人間関係でなく、引き受けた課題と自分にルールを適用することから生まれる。

例6:「改札口のない駅」
ドイツの電車の駅には改札口がない。乗客はホームへ行き、そこに来た電車に乗り、目的の駅に到着して降りる。ただし抜き打ち的に検札が入り、有効な乗車券を持っていないと無賃乗車と見なされ罰金を払わなければいけない。しかし、市内や近距離の場合は乗車時間が短く検札を受けることはあまりない。ということは、無賃乗車をしようと思えばいくらでもできることになる。ところが、大多数の乗客はこの自己責任方式を支持し、自主的に切符を購入する。だからこそこの方式が機能するとされている。

このシステムは「奇跡の経済復興」に成功し豊かになり、慢性的な人手不足に悩んでいた戦後西ドイツの1960年代に始まった。昔から欧州の隣国の人々は、この方式は真面目なドイツ人だからこそうまくいくのだと感心する。現在は時代も変わり、比較的失業者が多い町では無賃乗車数が増大しているそうだが、それでもドイツ全体では無賃乗車数の割合は3%ぐらいにとどまり、乗客はこのシステムに納得していることになる。

例7:高いモチベーション
ソフトウエアを共同開発するドイツ企業とインド企業の間でコーディネーターを務めるインド人の経験である。彼の下でドイツ人とインド人が働いていることになるが、ドイツ人グループに対する彼の評価は高い。彼らに何か新しい課題を出すと、熱心に仕事に取り組んできちんと間に合わせる。また、必要があれば彼らは仲間の間で助け合う。プロジェクトを円滑に進めることが彼らに重要であることを、インド人のコーディネーターは感じたという。うまくいったからといって、彼らが何か物質的に得をするわけでもない。このインド人には、ドイツ人が仕事をうまく組織して実行することそのものに価値を見いだしているように思われた。

プロジェクトの意味を理解し、その中で規定された規格やルールを真面目に受け取り、期待通りのでき映えの仕事をやり遂げて、何かトラブルが発生したときにはお互いに助け合って処理に当たる。さらに、きちんと仕事の進行状況を報告してもらえる。このようにモチベーションも高く、自己責任の原理で仕事を次から次へと片付ける。このような仕事ぶりは特別なことでなく自明とされ、褒められると困った顔をする人もいる。

不確実性回避度
オランダの異文化研究者、ヘールト・ホフステードによると、国民の未来に対する不安の度合いは国によって異なり、この度合いが高い国民は秩序志向が強いそうだ1。彼はこの要因を「不確実性回避指数(Uncertainty avoidance index)」として数量化した。

それによると、1位はギリシャの112点、次はポルトガルの104点で、ドイツは37位で65点でそれほど「不確実性回避度」が高いわけでない2。ベルギー、フランス、スペイン、イタリアといった欧州隣国がドイツより上位に位置している。ドイツ人は、例えばギリシャ人やイタリア人の秩序の尊重が強いなどとは考えない。おそらくこのようにメンタリティーを数量化して説明するのは無理があるのかもしれない。

ドイツでは、自国民の秩序志向はよく戦乱に明け暮れて安全や秩序からほど遠かった自国の歴史と関連付けられる。近世に入ってから欧州の隣国では統一国家が成立しているのにドイツは分裂状態にあり、隣国からの軍事介入を招いた。これに関連して、欧州全土から傭兵が集まり、ドイツの人口が(一説によると)半分以下に減ってしまった30年戦争が挙げられる。そのような経験を通じてドイツ国民は秩序やルールのありがたさを学んだのだと説明される。

ドイツ国民のこのような秩序志向とルールを尊重する姿勢こそ自国に成功をもたらしたもので、そのために自国のシステムを最善と見なす傾向がある。この国の人々は成功を繰り返す優等生タイプで、それだけに、何かうまくいかないと挫折感が強いともいわれる。

また、自信過剰から自国がどれほど隣国から傲慢(ごうまん)だと思われているかにあまり気付かないともいわれる。ユーロ危機勃発以来「緊縮財政のすすめ」でこの国の政治家は隣国の人々をイライラさせている。自国の処方が隣国に適用できるかどうかをあまり疑わないのは、「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載)で述べたように「人間関係が二の次」である結果、人の気持ちをくむことが苦手だからでもある。

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1 http://itim.jp/interview_hofstede_jetrosensor201604/
2 http://www.clearlycultural.com/geert-hofstede-cultural-dimensions/uncertainty-avoidance-index/