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存在しないドイツ-強制労働の補償

発行:2014/05/28

概要

少し前から、中国の日本企業が戦時下の補償を求められるケースが見受けられる。これは、東西に分裂し、そのために変則的になったドイツの戦後処理が模範とされて、日本にもそれを見習うことが求められているからだ。この状況を理解するためには、ドイツの戦後処理について知る必要があると思われる。

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少し前から、中国の日本企業が第2次世界大戦での補償金の支払いなどを求められているというケースが見受けられる。

これは、日本もドイツの戦後処理と似たような解決をすべきだ、という求めにより生じたものだ1。では、ドイツの戦後処理とは一体どういうものだったのか。

ロンドン債務協定
通常、戦争が終了すると、交戦国が平和会議で交渉し、領土の割譲や戦争賠償などを取り決めて平和条約を締結する。交戦国はいろいろな損害を被るが、第2次世界大戦では平和条約締結時にこの点が考慮されて条件が設定された。戦後処理とはこうして国家間で決着され、個人が介入する余地などなかった。

このような戦争の終結が国際基準であったことは、そうでない場合を考えると分かりやすい。例えば、侵入した敵軍の兵士によって自分の子どもが殺されたとする。戦争終了後何年もたってから国境を越えて殺した人に復讐(ふくしゅう)したり、また償いを要求したりすることは新たな紛争の種になり、そのために文明国同士の紛争解決だと見なされていなかった。

ところが、このような国際社会での基準が第2次世界大戦の主要敗戦国ドイツでは順守されず変則的になる。理由はドイツが米英ソ仏の占領国の仲たがいから東西に分裂し、平和条約を締結できなくなったからである。この結果、ドイツ国民は分裂国家としての悲劇を体験しただけでない。彼らの戦後は、定石通りに戦争を終了した日本から見て想像できないほど屈折し、また国内法も、国際的取り決めも複雑な形を取らざるを得なかった。

ドイツの戦後処理を理想化する人々から軽視される2のは、1953年に西ドイツと米・英などの西側諸国の間で結ばれたロンドン債務協定である。これによって、第2次世界大戦勃発前の戦前と、1945年以降の戦後にドイツに与えられた借款の返済義務が確定された。こうして戦前と戦後の平時に由来する債務は決まったが、戦前と戦後の間に当たる「第2次世界大戦に由来する債務の検討」の方は、その第5条第2項で「賠償問題を最終的に取り決めるまで、保留される」ことになる。これは、冷戦とドイツの分断状態が終わり、正式の平和条約が締結されるまで、賠償問題が棚上げにされることを意味した。

当時は冷戦がいつまでも続くと思われたので、この保留条項はドイツが賠償金を支払わないで済むことを意味し、その結果西ドイツは国際金融市場で信用を得て「驚異の経済復興」の道を歩むことができた。これほど西ドイツが優遇されたのは米国がこの国を「反共のとりで」にしようとしたからである。しかしそのことに満足できない国は多く、またドイツもそのことを無視できず、結果として1950年代から1960年代の前半にかけて11カ国に「個人補償」を支払うことを余儀なくされた。

賠償金を支払ったことになると、ドイツ自身がロンドン債務協定・保留条項を無効にし、賠償要求に対する防壁を壊すのに等しい。そこで、当時のドイツの公式見解が強調しているように、外国への支払いは戦争賠償ではなく「ナチに断固と反対するドイツ国民の精神を国外でも発露させて、政治的、宗教的、人種的な理由から人間を迫害した『ナチ固有の不正』の犠牲者を救済する」3ためであるとされた。ちなみに、典型的な「ナチ固有の不正」の犠牲者とは人種的理由から強制収容所に監禁されて、その多くが虐殺されたユダヤ人である。

このような変則的なさみだれ式の戦後処理、すなわち「ドイツの個人補償」が誕生したのは、賠償は行いながらも、円滑な国際関係の維持を目指すためであった。

ドイツ式戦後処理と賠償の定義
第2次世界大戦後、ドイツが賠償金を支払うに当たり、上述の「ナチ固有の不正」の犠牲者という項目が登場したのは、賠償と関係する戦争と「個人補償」の対象となるナチの所業を区別するためだ。次にこの区別は、自分たちは普通の戦争をし「前線で真面目に戦っていたのに、後背地の強制収容所でナチの親衛隊(SS)が非人道的なことをしていた」とする戦後西ドイツ国民に多く見られた屈折した意識4の反映でもある。

ここで重要なことは、支払わないための防衛ラインが設定できた点である。交戦国の(非)戦闘員を殺したり、財産を破壊したりするのは「ナチ固有の不正」でなく、戦争につきものの損害であった。そのため、ドイツの公式の立場は「戦争賠償で支払うものは平和条約を締結するときに確定しよう、それまで待ってくれ」というものであった。ポイントを以下の表にまとめた。表上段は政治的必要に応じた賠償で、下段は平和条約締結時に確定する賠償だ。

【表 賠償の定義】

M304-0008-1

ドイツの「個人補償」は損害賠償でなく、本来は公的見舞金と呼ぶべきで、法的責任を避けて、道徳的・歴史的責任を強調する。これがドイツ式戦後処理である。戦争で与えた被害の賠償となると、あまりに巨額で財政の逼迫(ひっぱく)した敗戦国には支払いは困難である。実際に第1次世界大戦後のドイツがそうであったが、2度目は「ナチ固有の不正」の定義によって支払う範囲を狭めることができた。ただ、戦時下、占領地から連行されて労働を強制された人は1,000万人以上もいて金額が巨大だったこともあり、この件は賠償扱いとされた。

裁判官も、ロンドン債務協定の保留条項と「ナチ固有の不正」を組み合わせる要領はよく心得ていて、企業もしくはドイツ国家を訴えた元強制労働者に対して、時効を指摘して「訴えが遅過ぎた」と言うか、あるいは平和条約がまだ締結されていないので「訴えが早過ぎる」と言うかのどちらかであった5

遠い未来の平和条約締結を盾に賠償金の支払いをしないできた分断国家の政治家は、ベルリンの壁が崩壊してからは「平和条約」という言葉を口にしなくなる6。東西ドイツが米ソ英仏の主要4カ国と交渉するだけの「2+4会談」で、ドイツ統一が実現。統一に当たり平和会議を避けたのは、旧交戦国が団結して賠償を問題視し始めると、さまざまな困難が出現すると予測されたからであった。

東西ドイツの統一後、フランス、ギリシャをはじめいろいろな国から、ドイツは、戦時下での強制労働や非戦闘員に対する残虐行為などのために補償や賠償を請求されたが、外交力で押さえ込むことができた。

ところが、1998年から1999年にかけて米国で、ナチによるユダヤ人資産没収で利益を得たドイツの金融機関と、戦時下強制労働をさせた企業が、ユダヤ人団体から圧力をかけられたり集団訴訟を起こされたりした。ドイツの代表的な企業は裁判の勝ち負けより、企業イメージの損失を恐れて賠償を決意する7

2000年、ドイツ政府と経済界が100億マルクの資金を半々で負担して「記憶・責任・未来財団」を設立し8、米、イスラエルならびに東欧圏居住者に限定し「強制収容所もしくはそれに似た環境」で強制労働に従事した人々に支援金を支払った。反対に、過酷な条件で労働を強いられたにもかかわらず、強制収容所というナチの迫害と無関係である場合は、通常の戦争の犠牲者として支援金を受け取ることができなかった。つまり、この場合も「支払うのはナチ固有の不正にだけ」というドイツ戦後処理の原則にほぼ忠実だったことになる。参考までに、1人当たりの支給額は約2,500ユーロ(約35万円)から7,500ユーロ(約110万円)であった。

被告席に座れない国家
東西ドイツの統一後、賠償問題をうやむやにするドイツに憤慨した隣国は少なくなかった。有名な例は、戦時下の1944年ギリシャのディストモ村で子どもや女性、老人218人が惨殺された事件だ。村人はドイツに補償を求めて提訴し、ギリシャの最高裁がドイツに支払うように判決9。最終的にはギリシャの特別裁判所が判決の執行を不可能と判断する。

イタリアでも似たような悲劇に遭遇した村が幾つもあり、村人およびドイツで過酷な条件で労働を強制された人々も、ギリシャと同様に補償を求めてドイツを訴えた。イタリアの最高裁はこれらの訴えを認め、判決の執行も可能であると判断した。さらに、自国では不可能であるためにイタリアでの判決の執行を求めて訴えていたギリシャのディストモ村の人々の主張も認めた。こうしてドイツ国有資産の差し押さえが始まった。

これに対して2008年、ドイツは、国家は他国の裁判権に服さないとする国際法の裁判権免除にイタリアが違反しているとして、オランダ・ハーグの国際司法裁判所に提訴。2012年2月に判決が下され、ドイツが勝訴した10。この判決は戦争犯罪でも裁判権免除を認め、今後ドイツが外国で損害賠償を求められ訴えられることはないことを意味する。現に2014年3月、ギリシャを訪問したドイツのガウク大統領は、ギリシャ大統領から賠償を請求されると「法的手段を取る道は終了した」と言って支払いを断り、戦時下のドイツ人の残虐な行為を非難すると同時に謝罪した。

この国際司法裁判所の判決は、戦争終了後も訴訟という法的手段によって争いを続けるのではなく「法的平和」を実現するために役立つと評価されている。欧州人権裁判所は人権重視で有名だが、すでに触れたギリシャ特別裁判所の執行不可の判決と関連して国家の裁判権免除を肯定する判断を示している。とすると、戦争犯罪に関しての損害賠償裁判で外国政府を訴えてもらちが明かないことになる。

目指すのは「法的平和」
ここで東アジアでの法的紛争に目を向ける。日本の企業は、司法の独立性がはっきりしない裁判で、極端な判決が下されて巨額の補償金を支払うことになったり、ボイコット運動が展開されたりすることを心配しているという。また、撤退することになれば大きな損失を被ることになる。

2014年3月初旬ころは、中国の要求は日本の政府と企業の両方への補償だったのが、企業だけになり、そのうちに企業も本社から現地法人に変わっている11。このように紛争を(国際化と反対の意味で)国内化すると、裁判権免除されている国家を相手にしないで済み、また日中共同声明による対日賠償放棄に制約されなくなる。

外国ではこのような状況になると企業は弱い。だから、上述の通り、米国で1998~1999年に強制労働で訴えられたドイツ企業も抵抗できなかった。中国での日本企業の立場はもっと厄介である。日中は米独関係と異なり政治的に緊張している。以前却下した訴えを中国が受理するようになったのは、自国経済力が強くなり、以前ほど日本からの投資を必要としなくなったからだ。そうすると、日本の対抗策は限られていくことになる。

ドイツの強制労働の補償請求裁判では、訴えられた企業が戦時下の企業の権利継承者かどうかがよく議論された。これはつまり、敗戦でドイツ企業は外国にあった資産を接収されたのに、借金を支払う段になると権利継承者にされるのは不公平だという考えからだ。また、この裁判は民事裁判であるために時効も大きな役割を果たした。ドイツでは、強制収容所で残酷な人殺しをした元親衛隊員の老人が訴追されることがあるが、その際には時効がない。それは刑事裁判だからである。

さまざまな法的な疑問点を解明するためにも、ドイツとイタリアの裁判のように国際司法裁判所に判断を仰ぐのがいいように思われる。しかし、相手国が承諾しないと裁判が実現しないのが規定である。日本が願っても中国が同意することは想像しにくい。その場合、戦後処理の経験も豊かなドイツのような第三国に調停を依頼することも可能性の一つとして有効であるといえるだろう。

仮に、裁判が実現したとすると、訴えられた企業は面倒なトラブルを避けるために賠償金の支払いを行うかもしれない。しかし、支払ったからといってその問題が解決するとは限らない。というのは、また別の人々から訴えられて、いつまでも終わらない可能性があるからだ。このことこそ、1998~1999年に米国集団訴訟に直面したドイツ企業が一番心配した点であった。そのために、彼らは、今後法的に訴えられないような状態、すなわち「法的安全」の確保を支払うための前提条件にした。

それは、法的紛争でなく「法的平和」の実現を目標として、そのために被害者団体、東欧諸国ならびにドイツと米国が18カ月間も交渉し「記憶・責任・未来財団」の設立に合意したのだ。それだけではない。米国はドイツとの二国間協定の中で「ナチならびに戦争犯罪に関連したドイツ企業に対する訴えを裁判所に却下するように勧告する」義務を負う12こととした。

M304-0008-2 上記の財団のマルティン・ザルム理事長(写真)13によると「司法が政治から独立している民主主義国の米国で、この程度の勧告によってドイツ企業に『法的平和』が訪れることに懐疑的な人が当時ドイツには多かった。ところが、驚いたことに集団訴訟はピタリと収まった」と笑う。

米国で「歴史問題」を専門にする弁護士事務所は、ドイツ企業に対する集団訴訟と並行してインターネットで日本の戦争犯罪被害者を探していた。こちらの方は(ドイツと反対に)訴訟が始まって却下されているうちに先細りしてしまう。そうなったのはサンフランシスコ平和条約があり、米国が国際法を尊重したからである。これと同様のことを東アジアの隣国へ期待するのは困難であろう。

つまり、日本は国際法を順守する立場を堅持しながらも、自国企業の保護のために、時にはフレキシブルな対策が必要になるかもしれない。

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1 Tan Minoguchi:Entbräunungs-Serenade. Ein deutsches Modell für die Vergangenheitsbewältigung in Japan. In:Süddeutsche Zeitung 12. 7. 1999. S. 14. 筆者が15年前に南ドイツ新聞に書いた評論。日独の戦後の歴史的条件も東アジアの政治的環境も異なるために、ドイツ式過去克服モデルは東アジアで困難であるという内容。
2 Zur Sache. Themen parlamentarischer Beratung. Entschädigung für NS-Zwangsarbeit.
これは1989年の議会公聴会。ドイツの歴史家ウルリヒ・ヘルベルトによると歴史学会でもこの協定の重要性が認識されていないそうだ(118ページ)。
3 ドイツ賠償関係文献に登場する決まり文句。筆者は1990年代ドイツ大蔵省の役人から何度も聞いた。
4 Hirsch, Martin:Anlaß, Verlauf und Ergebnist der Verjährungsdebatten im Deutschen Bundestag.
In:Weber, J./Steinbach, P.:Vergangenheitsbewältigung durch Strafverfahren? S. 40
5 後に「記憶・責任・未来財団」理事に就任したギュンター・ザートホフ氏が1990年代前半に筆者との会話で何度も使った表現。”Barwig, Klaus;Saathoff, Günter & Weyde, Nicole(Hrsg.), Entschädigung für NS-Zwangsarbeit. Rechtliche, historische und politische Aspekte.” 15ページにも出てくる。
6 詳細は筆者のhttp://www.geocities.jp/tanminoguchi/baisho.htm
7 歴史家のコンスタンティン・ゴッシュラーも似たような印象を得たと語っている。
http://www.zwangsarbeit-archiv.de/projekt/experteninterviews/goschler/index.html
8 「過去の克服・ドイツの場合」。朝日新聞2014年5月8日17ページ。
9 http://www.geocities.jp/tanminoguchi/20060314.htm
10 http://www.geocities.jp/tanminoguchi/20060314.htm
11 http://sankei.jp.msn.com/world/news/140307/chn14030719270004-n1.htm
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201404/2014041500971
12 Grenzen der Wiedergutmachung. Hrsg.v. H.G.Hockerts u.a. Bln 2006. S. 140
13 筆者撮影。

M304-0008
(2014年5月18日作成)