ポピュリズム」タグアーカイブ

ドイツ総選挙とユーロ圏の今後(2)

概要

ユーロ危機はまだ終わっていない。南欧を中心とした経済は低迷したままで、欧州統合に背を向ける人々が増加している。このため、フランスのマクロン大統領は欧州連合(EU)改革を提案したが、ドイツ側から見て役立つようには見えない。一方、ドイツの総選挙で欧州統合への批判的勢力が強くなったことは、メルケル首相が周辺国からの要求を断るのに役立つかもしれない。

              ……………………………..

ユーロ危機の構造
ユーロ危機には二つの側面がある。その一つ目は過剰債務の問題で、多くの国で見られることである。二つ目は、共通通貨ユーロを持つことから生まれた加盟国間の不均衡問題である。この結果、経常収支がアンバランスになるだけでなく、競争力の格差が生まれた。ユーロ導入以前なら、自国の競争力が低くなったら自国通貨を切り下げることで対応できたが、それが不可能になった。よく出される例は、ギリシャがオランダで栽培されたトマトを輸入するようになったことで、自国のトマトの販売競争力が失われたという話である。言うまでもないが、現実には、過剰債務と競争力格差の問題は複雑に絡み合っている。

過剰債務については、リラ、エスクード、ドラクマ、ペセタといった南欧諸国の通貨は、ユーロ導入以前はインフレ気味で、そのリスク防止のために金利も高かった。1995年マドリード欧州理事会で、利子が低い上、何でも買えるハードカレンシー「ユーロ」の名称が決まる(ユーロの導入は1999年)。南欧諸国にとってこれは夢のような話で、財布のひもも緩むしかない。また、外部の投資家にとってこれらの国に対する投資リスクが低くなったのも同然で、これを機に投資ブームに沸き、北から南へ資金が流れた。

私事で恐縮であるが、筆者はユーロ導入後の2000年にバカンスでスペインのアリカンテへ行った。海岸の近くで、雨があまり降らずドイツ人が好みそうな場所であった。近くをドライブすると、丘に無数の住宅が途中まで建設されたままほったらかしになっていた。この丘ははげ山で、給水などのインフラ整備も高くなりそうであったため「バブル」という言葉が一瞬脳裏をかすめた。また当時レストランへ行くと、以前と比べて料金が高くなっているのも気になった。

その後、2007年の米国発金融危機を受け、南欧諸国に資金が流れ込まなくなる。人々が不安の連鎖反応でリスクに特に敏感になったからであるが、これはそれまでのバブルがはじけたことになる。ユーロ危機は最初の震源地がギリシャであったためにソブリン危機とも呼ばれるが、民間の債務過剰も深刻である。下の図表36はユーロ圏諸国のバランスシートに占める不良債権の割合を示す。2013年以降、アイルランド、スロベニア、スペインは不良債権を減らすことができたのに対して、キプロス、ギリシャ、ポルトガル、イタリアの4カ国では前進が見られないとされている。

【図表3:ユーロ圏諸国のバランスシートに占める不良債権の割合】
M0304-0020-21

上記の数字を見ていてもぴんとこないのは、フランスに次ぐ経済大国イタリアの深刻度のためかもしれない。欧州連合(EU)全体の3分の1に相当する3,600億ユーロに及ぶ焦げ付き債権を抱えているとされている7。これはイタリアの国内総生産(GDP)の20%に相当する。2017年夏も二つの銀行が再建不能とされて破綻処理されたが、これは氷山の一角にすぎないと心配する人も多い8。焦げ付き債権が多いと、中央銀行がゼロ金利にしても資金が実体経済に回らないので、経済的停滞の原因になる。

次は国家の過剰債務であるが、欧州中央銀行(ECB)の量的緩和政策(QE)が実施されている。これは、2015年3月から2017年末まで毎月800億ユーロもしくは600億ユーロの割合で総額2兆3000億ユーロに及ぶ債券を購入するプログラムである。このうち1兆8000億ユーロはユーロ加盟国の国債の購入に充てられている。ただし、加盟国の中央銀行がそれぞれ自国の国債の購入を担当する仕組みになっている。

こうして国債も自国の中央銀行が持っている限り、返せとか利子を払えとか面倒なことは言われないので、問題は消えてしまったことになるのも同然といえる。だからといって、問題が解決したかどうかについて疑い持つ人は多い。

競争力の欠如
2番目の不均衡問題は、実体経済と関連するので知らん顔では済まされない。すでに述べたように、1995年ごろから2007年までの間にユーロ加盟周辺国で投資ブームからバブルになり、物価も賃金も上昇してこれらの国は競争力を失ってしまった。

【図表4:ユーロ圏諸国の物価の変遷(2008年9月=100)】
M0304-0020-22

この事情を示すためによく引用されるのは、上の図表4の数字である9。資金の流入が始まった2008年9月のリーマンショック時を100にとして、1995年から2016年までのユーロ圏諸国の物価の変遷を表示したものである。バブルで上昇した物価がリーマンショック以降、それぞれマイナス7%、マイナス11%、マイナス1%といった具合に下がった。とはいっても、これらの加盟国が競争力を持つためには、米国のゴールドマン・サックスの計算によるともっと下がらなければいけない。その値がマイナス34%、マイナス30%、マイナス27%、マイナス11%である。

言うまでもなく、一度上がった収入を下げることなど選挙があって民意が尊重される国では実行困難である。共通通貨導入以前であれば、これらの国は自国通貨のレートを下げれば自国に競争力が生まれたし、外国からの製品もサービスも高くなって国民は買わなくなるので、自国経済も対抗できた。ところが、何でも買えることのできるハードカレンシーを手渡された以上、自国で抑制することなど本当に難しい。

欧州では古くから、共通通貨のレートの上げ下げのメカニズムの意味についてよく議論された。このメカニズムがなくなることは解決困難な問題らしく、1980年代後半の議論では「共通通貨は、政治や経済のいろいろな分野での統合が進展して、加盟国間の不均衡もなくなった統合過程の最後にその努力を報いるための冠とし実現される」ことになっていた。ということは、フランスのミッテラン首相とドイツのコール首相(いずれも当時)の共通通貨導入・合意は見切り発車だったことになる。そこでいろいろなルールをつくったが、守られなかった。

ドイツ・フランスの相違
最近のEU加盟国での選挙結果が示すように、英国だけでなくその他の国でも欧州統合に背を向ける人々が少なくない。このような潮流に直面して、EUならびにユーロ圏についていろいろな改革が提案されている。フランスのマクロン大統領のEU改革案もその一つである。彼が若くて、ドイツと並ぶ重要な加盟国の元首でスター的存在であるために、メディアからは「欧州に新たな息吹をもたらす」と注目される。

フランスのマクロン大統領の提案は、難民対策、共通の介入軍の創設、テロ対策、デジタル化での協力強化といった具合に多岐にわたる。ユーロ圏については、彼は(EU全体とは別に)固有の予算を設けて、それを管理する財務大臣を置くことを、さらにその活動を民主的にコントロールするためにユーロ圏だけの議会の創設までも提案している。ドイツ側は多くの場合、このような話を聞くと、フランスの政治指導者層の発想と自分たちの考え方の間に横たわる大きな相違を感じるという。

加盟国の不良債権の問題だが、該当国に担当する役所があるし、問題が国境を越える場合にはECBの所轄下になる。加盟国に競争力が欠けていたり、経済活動が不活発であったりすることも現場に近い具体的な問題で、ユーロ圏に大臣のポストを設けたり、予算を設けたりすることによって解決できることなどはドイツ側には想像できないようだ(冷戦時代のことだが、西ドイツのある政治家が、筆者に欧州統合はフランスの政治家の天下り先を確保するためにあるのだと語ったことがある)。

欧州統合のパートナーとしてのフランスは、多くのドイツ人の目には、中央集権が強く、グランゼコール出身のエリート行政官が仕切る国であると認識されている。国家が主導するという発想が強く、だからこそ、よく指摘されるように対GDPに占める国家支出はフランスでは約57%にも及ぶ。ちなみに、ドイツは44.3%、日本は36.82%、米国は35.23%だ10。このような国家尊重主義のためか、EUに、特にユーロ圏に国家的性格を付与したいという願望が強いようにも見える。

ユーロ圏の在り方について、昔からフランスや南欧の周辺諸国が期待するのは一つの国家に似た連帯責任体制になることで、その結果は、経済的に強者が弱者を支援しなければいけないということになる。フランスのマクロン大統領は大統領選挙中のインタビューで「ドイツはユーロ圏の不均衡を利用して貿易収支の巨大な黒字を実現している。これはドイツ経済にとってもユーロ圏経済にとってもよくない。この点で埋め合わせがないといけない」と語っている11。「もうけた以上、少しは出せ」という考えで、だからこそ、ユーロ圏の予算とか財務大臣とかいった発想になるようだ。

似たような話だが、マクロン大統領は社会福祉に関して、加盟国が失業保険を共同で給付することを提案している。このような提案もドイツ側を驚かせたようだ。というのは、フランスもドイツに次ぐ経済大国であるので自国も費用を負担することになる。ところが、欧州統合となると(理想に燃えるせいか)自国の負担金のことを忘れてしまうように見えるからだ。

ドイツは、加盟国が独立国家で自己責任を前提として共通通貨導入に賛成した。だからこそ、ユーロ圏を連帯責任体制にすることを拒み続けている。そのためにユーロ圏共同債の発行にも反対である。これがドイツの公式の立場であるが、2010年にギリシャ支援を行ってから、裏口から連帯責任体制が入り込んでしまったといわれる。

その一つの例は、ECBが危機に陥った加盟国に便宜を図るようになったことだ。この結果、筆者が「欧州の「打ち出の小づち」、ターゲット2問題について(2)」(2013年1月28日付掲載)の中で記したように、加盟国の中央銀行はユーロを発行できるので「打ち出の小づち」を手にしているのと同じことになった。ということは、問題は資金が南欧の周辺国に回らないことでなく、そこに投下されないで、ドイツなど北の国々に戻ってきて不動産や株に投下されてバブルを引き起こすことである。ということは「不均衡の埋め合わせをする」ために予算を設けるのも奇妙な話である。

ユーロ圏には「ターゲット2」と呼ばれる決済システムがあるが、現在、南欧周辺国に対するドイツの債権残高は8,500億ユーロにも及ぶ。この巨大な額はドイツから潤沢な資金が流れ込んでいることを意味する。同時にターゲット2の債権残高は「欧州の「打ち出の小づち」、ターゲット2問題について(2)」(2013年1月28日付掲載)で記したように、ターゲット2の債務残高のある加盟国がユーロ圏から脱退したら戻ってこないことでもある。ということは、ドイツは南欧周辺国からの要求に対して譲歩しなければいけない立場にあることになる。

この事情を考慮すると、ドイツではユーロ圏における連帯責任方式の拡大に批判的な自由民主党(FDP)と連立を組み、ユーロ救済に懐疑的なドイツのための選択肢(AfD)が議会にいることは、メルケル首相にとって南欧周辺国からの要求を断りやすい状況が生まれたという意味で頼もしいかもしれない。

************************************************************************
6 Bankenunion:Wie stabil sind Europas Banken?
http://www.delorsinstitut.de/2015/wp-content/uploads/2017/06/170627_JDI_Bankenunion_Web_A4_einzeln.pdf 4ページ
7 http://derstandard.at/2000040798352/Banken-ziehen-Italien-in-die-Tiefe
8 https://jp.reuters.com/article/eurozone-banks-italy-idJPL4N1K33RF
9 ifo研究所・前所長Hans-Werner Sinn – Die Fiskalpolitik der EZB – Wie geht es weiter in Europa?(2017年10月12日にミュンヘンで行われた講演)
10 https://de.statista.com/statistik/daten/studie/329446/umfrage/staatsquoten-in-industrie-und-schwellenlaendern/
11 https://www.morgenpost.de/politik/article210281479/So-denkt-Emmanuel-Macron-ueber-Deutschland-die-EU-und-Trump.html

M0304-0020-2
(2017年11月1日作成)

欧州 美濃口坦氏

「お母さん」と呼ばれる政治家 -メルケル首相の人気

発行:2013/09/02

概要

ドイツでは、メルケル首相に対して親しみやすさから「お母さん」や「お母ちゃん」といった表現が使われている。また、倹約家の主婦というイメージもある。メルケル首相の人気が高いのは、彼女がユーロ危機問題に関して国民に信頼されているからだ。多くの人々は、彼女が国民から預かった「財布」を大事にしてくれると信じているのである。

************************************************************

M304-0005もしかしたら、メルケル首相ほど面白い政治家はいないかもしれない。そのためだと思われるが、町の大きな本屋へ行くと、彼女について書かれた本がたくさん置かれている。

「ドイツ国民-アンゲラ・メルケルと私たち」や、旧東ドイツ時代を丹念に調べた「アンゲラ・Mの第一の人生」「メルケル現象」「アンゲラ・メルケル-ためらいの達人」「面目失墜のお母さん」「シュタインブリュックかメルケルか」など多彩だ。

これらの本の表紙には、彼女が若いころの写真や、机で考え事をしていたり困って目をつぶっている写真、彼女が論敵に一矢報いた瞬間の写真などが使われている。また、何かに集中しようとして指と指を合わせる彼女の両手だけが写っている表紙もある(写真上部中央1)。

パーセプションギャップ
欧州各地の財政カットに抗議するデモや大衆紙などでは、メルケル首相の顔写真の鼻の下にヒトラーのひげがつけられていたり、ナチの親衛隊の制服を着せられたりしていることが多い。一方、彼女について書かれた本の表紙にそうした写真が使われていないのは、本の読者であるドイツ国民にとって、ナチのイメージほど彼女に縁遠いものはないからだ。

メルケル首相は米フォーブス誌から毎年のように「世界で最もパワフルな女性」に選ばれたり2、「鉄の女」サッチャー元英首相と比べられたりするが、このような「強い女性」のイメージもドイツ国民にはしっくりこない。

紺色の上着を着た彼女が途方に暮れている表紙の本のタイトルは「面目失墜のお母さん」で、「お母さん(ムッター)」とはメルケル首相のことである。ときには、小さな子どもが使う、より近い母子関係を示す「お母ちゃん(ムティ)」という表現も彼女に対して使われる3。「メルケルお母さん」には「国母」といった、いかめしいイメージはない。

ということは、多くの人は「お母さん」とか「お母ちゃん」と呼ぶほどメルケル首相を親しい存在と感じていることになり、「鉄の女」のようなイメージからも程遠いといえる。政治学者ハインリッヒ・オーバーロイター教授によると、2013年9月22日に予定されている総選挙で野党が彼女に到底対抗できないとみられるのは、この彼女に対する「お母ちゃん」のイメージのためだという4

国内では「お母さん」扱いされるメルケル首相に対して、国外で「鉄の女」やヒトラーのイメージが生まれるのは、ユーロ危機を機に経済の強いドイツの影響力が強まった結果、欧州支配の野望を疑われるようになったからである。ドイツの影響力の増大は、南ドイツ新聞の外報部の記者によると、国内でなくブリュッセル、パリなどもっぱら国外で感じられるそうだ5。ではなぜ、このようなパーセプションギャップが生まれるのだろうか。

「小切手外交」の延長
戦後の旧西ドイツ時代から、欧州連合(EU)諸国などとの隣国関係はドイツ国民にとって終止お金を払わなければならない、経済大国と政治小国の「小切手外交」であった。ユーロ危機へのドイツの対応も、今までのところは財政破綻しかかったユーロ加盟国を経済援助する話である。こうした経済援助が巨額でまたその効果が不透明であることに不安を覚えても、結局、ドイツは隣国の農業やインフラ整備を助成してきた。

少し前に行われた世論調査6によると、回答者の91%は、ユーロ危機は収束していないと感じている。また、この点がドイツ国民にとって1番の心配の種だそうだ。メルケル首相の人気が高く、9月の総選挙で勝つと予想されているのは、大多数の人々が、この最大の懸案事項において彼女を信頼しているためである。

このことを示すために、メルケル首相が率いるキリスト教民主同盟(CDU)と似た国民政党で、共通の支持層を持つ野党第1党の社会民主党(SPD)でなく、野党第2党、緑の党を例に挙げる。2013年2月の世論調査によると、この党の支持者67%が「ユーロ危機でメルケル首相はドイツの国益を守っている」と回答している。また、緑の党の支持者の47%が「メルケル首相に好感を覚える」と答えた7他、8月に行われた別の世論調査でも、45%が彼女に好感を覚えると回答した8。緑の党の支持者が、本来は与党CDUと政治的に対極的な立場を取っていることを考慮すると、これらの世論調査の結果は興味深い。

メルケル首相のユーロ危機対策が党派を超えて支持されるのは、大多数の国民がユーロ危機を従来の欧州の隣国関係の枠で捉えているからだ。「小切手外交」の延長で考えると、自国の政治家にしてほしくないことは、ヨーロッパのために「大盤振る舞い」したり「白地小切手」を切るような「最大の悪夢」である。彼女は、そんなことはしないと期待されていることになる。

上の写真の本屋には「シュタインブリュックかメルケルか」という本が置いてある。ペール・シュタインブリュック氏は野党第1党である社民党の首相候補だ。世論調査によると9、ドイツの総選挙が米大統領選挙のように与野党首相候補の一騎打ちになった場合、メルケル首相が59%、社民党候補は20%の票を獲得するという。与野党の首相候補の間にこれほど差が生じたことは、これまでにはなかった。

ユーロ危機問題は、今回の選挙戦の争点ではないといわれる。与野党が表立って論争しないという意味ではその通りだ。しかし注目すべき点は、メルケル首相が曲がりなりにもユーロ共同債や預金保険制度の欧州一元化に反対しているのに対し、野党側は「大盤振る舞い」や「白地小切手」の発行に賛成と見なされる発言をしていることである。

隣国でのドイツ政府の緊縮財政反対デモで、メルケル首相がナチ扱いされることは、ドイツ国民の目に彼女が断固として「ドイツの国益」を守っていると映っていることの証拠になる。このような事情から「メルケル首相は困難な状況にもかかわらずよくやっている」と賞賛する声が少なくない。

プロテスタントの牧師の娘
メルケル首相が国外でナチ扱いされることに平気でいられるのは、彼女が旧東ドイツで育ったことと無関係でない。1945年の敗戦で没落したドイツ国家の権利を継承しているというのが、戦後旧西ドイツの国是であった。反対に旧東ドイツの方は、旧ソ連軍がドイツ人民をナチ支配から解放して建国したといわれる。そのため、旧東ドイツで育った人の方が自分をナチと関係がないと思い、露骨なナチ扱いを気にしないことになる。

この点だけでなく、メルケル首相の人気を考える上で、彼女が旧東ドイツで育ったこと、すなわち「アンゲラ・Mの第一の人生」は重要である。繁栄した旧西ドイツよりも旧東ドイツの住民の方に勤勉、質素、誠実、規律、控えめといった昔のドイツの良き性格が残っているとよく言われる10

メルケル首相はこのような古き良きドイツの体現者だ。無地のブレーザーとズボンといういでたちが多いが、これが勤勉な彼女の仕事着である。彼女の時計は時刻を知るために、またネックレスは彼女の性別を明示するためだけにあると誰かが書いていたが、言い得て妙だ。こうして、彼女が真面目で質素で控えめだという印象が生まれる。彼女はブランド品とは無縁で、ブリオーニのスーツを愛用していたシュレーダー前首相とは正反対である。

メルケル首相は、旧東ドイツの片田舎でプロテスタントの牧師の娘として生まれ育った。ここで重要なのはプロテスタントであるということで、禁欲や倹約、真面目さといったものと結び付く。事実、彼女ほど金銭関係のスキャンダルと無縁の政治家はいない。ちなみに、対抗馬の野党のシュタインブリュック氏は、首相候補に選ばれる前、講演するたびに邦貨で300万円もの講演料を受け取っていたことが暴露されて、庶民からそっぽを向かれるようになった。

「メルケルお母さん」の別のイメージは「シュヴァーベンの主婦」である。南西ドイツのシュヴァーベンの住民は、昔から倹約家であると言われている。このイメージは、2008年に彼女が「収入以上に支出する生活など続けることはできない。そんなことは『シュヴァーベンの主婦』に聞けばいい」と発言したことから生まれた。「メルケルお母さん」は、けなげにも主婦として限られた収入で家計を切り盛りしていることになる。

多くの人々は、メルケル首相が(男性の政治家より)国民から預かった「財布」を大事にしてくれると信じている。また彼女が支出することがあっても、それは必要経費だと考えるようだ。

金融関係者によると、ドイツの総選挙後、再び対ギリシャ追加支援や債務免除が必要になるという。とすると、メルケル首相には「ユーロ危機の関係者」全員を待たさせる力があり、ドイツは政治大国で彼女は「世界最強の女性」ということになる。しかし、国民はそんなことを気に掛けないで、自分たちが抱く彼女に対するイメージにひたすら従うだけなのかもしれない。

*******************************
1 筆者撮影。
2 http://www.forbes.com/profile/angela-merkel/
3 http://www.handelsblatt.com/politik/deutschland/bundestagswahl-2013/angela-merkel-die-unbesiegbare/8628984.html
4 同上。
5 Stefan Kornelius:Angela Merkel.の10ページ。著者は南ドイツ新聞の外報部長。
6 http://www.rtl.de/cms/news/rtl-aktuell/umfrage-zur-euro-krise-wenig-optimismus-bei-den-deutschen-30f43-51ca-20-1594530.html この世論調査の詳細は https://www.uni-hohenheim.de/news/eurokrise-interessiert-doppelt-so-viele-buerger-wie-arbeitslosigkeit-2
7 http://www.zeit.de/politik/deutschland/2013-02/gruene-merkel-sympathie-schwarz-gruen
8 http://www.handelsblatt.com/politik/deutschland/bundestagswahl-2013/forsa-umfrage-haelfte-der-gruenen-anhaenger-fuer-merkel-als-kanzlerin/8629080.html
9 http://www.spiegel.de/politik/deutschland/forsa-umfrage-merkel-punktet-trotz-steinbruecks-kompetenzteam-a-901139.html
10 1991年に映画監督のヴィム・ヴェンダース氏が筆者とのインタビューの中で「ベルリン・天使の詩」の撮影に関連して、この点を初めて指摘してくれた。

M304-0005
(2013年8月21日作成)

本屋から疎まれるベストセラー

[第179回]本屋から疎まれるベストセラー @ミュンヘン

美濃口坦 翻訳家兼ライター

Photo: Senba Satoshi

懇意にしている本屋さんの女性は「こんな本がベストセラーになるなんて不愉快」といってベストセラーのポスターを指さす。そこには2位に下がった『Hitler, Mein Kampf −Eine kritische Edition(ヒトラー、我が闘争−注釈版)』があった。入手したいという私に彼女は納期が不明だといって、在庫がある書店を教えてくれた。彼女が取り寄せるのを嫌がっているように感じた。

私の知人は別の書店で本の名前をいった途端「児童ポルノ」購入者扱いにされたそうだ。本屋が店内に置かず、取り寄せないベストセラーなど前代未聞である。

ヒトラーの『我が闘争』は1925〜26年に出版され、ドイツが敗戦するまで1200万部も刷られた。戦後は版権をもつバイエルン州が出版を禁じてきたが、ミュンヘンの現代史研究所は昔から注釈付きでこの本を公刊するべきだと主張してきた。死後70年で著作権が切れて、今年の1月に現代史研究所から刊行された。

約780頁だった原書は、再版されて2000頁に膨張し、その重さも6キロに及ぶ。こうなったのは、時代背景などの解説だけでなく、3500以上の注釈がつけられたからだ。

本を開くと、右頁の真ん中に本文が載った箇所があるのだが、その左隣の頁にも、後続する頁にも注釈が付いていて、本文の続きは数頁も先になることもある。解説も注釈も適切で好感を覚えたが、ヒトラーが悪いことをしないように「注釈」という無数の警備員に包囲されている場面を一瞬連想した。

ドイツ国民はヒトラーを熱狂的に支持したが、戦後の評価は一転して絶対悪の象徴となった。この国では、善とはヒトラーのしたことの反対になる。これは倫理的な判断基準を間接的にヒトラーに委ねることになりかねないので、思考停止でもある。いうまでもないが、彼と反対のことをしたからといって、いつも良い結果になるとは限らない。

今回の『我が闘争』の出版でこの現象が変化するなら、それこそ大きな成果だ。

『Reichtum ohne Gier(強欲にならなくても豊かさは可能)』の著者ザーラ・ワーゲンクネヒトは東独で育ち、20歳のときにベルリンの壁の崩壊を経験する。社会主義の理想を抱いていた彼女は当時悲しんだという。

その後、政治家の道に進んだ彼女ほど真剣に社会主義と資本主義に取り組んだ政治家はいないかもしれない。2008年の金融危機以来、彼女の資本主義批判が注目されてテレビの討論会によく登場するようになった。その豊富な専門的知識と明晰(めいせき)で熱心な話しぶりによって、党派を超えて多数の支持者をもつ。

彼女によれば、資本主義は、その市場競争の原理が機能し、自由な創意・工夫をうみだし、生産性を高め、経済を成長させ、多数の人々を豊かにすることができたという。しかし、21世紀に入ってこの事情が変わってきたのだという。世界的に活動し、経済力も政治力も強い企業には市場原理も適用されなくなるし、貧富の格差も拡大するばかりだ。人々は敗者にならないために、給与水準が下がっても抵抗しない。企業も投資家の利潤追求の対象でしかなくなる。こうなったのは多くの国で規制緩和や規制撤廃が実施されたからだ、との立場だ。

ワーゲンクネヒトの見解では、民主主義は相互コミュニケーションが可能な小さな単位でのみ機能できるという。それにもかかわらず国家が主権の一部を手放していくと、世界的な規模で民主主義が空洞化するばかりだと彼女は心配する。国境を超えて市民団体が協力してコントロール機能を発揮しても、グローバル企業の強力なロビー活動には対抗できない。

彼女がこう考えるに至ったのは、2004年から5年間欧州議会の議員を務めてブリュッセル生活を送ったからかもしれない。テクノクラートとロビイストの街、ブリュッセル。一説には、EU本部のあるブリュッセルでは、議員1人当たりのロビイストの数がベルリンの二倍半もいるという。

このような事情から、彼女は、資本主義の暴走を阻止しようとするならば、国家を出発点にするしかないと提案する。少なくとも、欧州の国ならば、選挙が実施されて、国民は意思を表示できるからである。

…………

国家が重要だという見解なら、『Wunschdenken(希望的観測)』も似ているかもしれない。独連邦銀行の理事だった著者ティロ・ザラツィンによると、ドイツ人は政治となるとユートピア志向になる。これは現実否認で、本の題名もこれに由来する。この傾向はドイツの欧州統合観にも難民政策にも反映されているという。

著者にとって単なる「希望的観測」にとどまらないためのモノサシは、「国益を見失わないこと」であるようだ。だからこそ、移民問題では、どうせ外国人を入れるなら、アラブ人でなく、教育を重要視する東アジア人のほうが国益になると著者は主張する。

国益を主張する本が売れるのは、ユートピア志向のこの国では、従来はそれがタブーとみなされてきたからかもしれない。

ワーゲンクネヒトの本とはかなり趣を異にする本書である。


ドイツのベストセラー(ノンフィクション部門 )

5月7日付 Der Spiegel紙より


1.Wunschdenken

Thilo Sarrazin ティロ・ザラツィン

移民問題で挑発的な本を書いた著者があるべき政治の姿を説く。

2.Hitler,Mein Kampf- Eine kritische Edition

Christian Hartmann u.a.(Hg) クリスチャン・ハルトマン その他編

現代史家の詳細な注釈がついたヒトラーの『我が闘争』の再版。

3.Das geheime Leben der Baume

Peter Wohlleben

自然林を理想とする著者が生きている樹木について語る。

4.Himmel,Herrgott,Sakrament

Rainer M. Schiesler ライナー・M・シースラー

カトリック神父がビールを飲みながらする率直なお説教。

5.Panikherz

Benjamin von Stuckrad-Barre B.シュトゥックラート・バレ

若くして成功した作家がコカイン中毒後久々に発表する自伝。

6.Der Appell des Dalai Lama an die Welt

Dalai Lama ダライ・ラマ

宗教より思いやりにもとづいた倫理こそ21世紀には重要。

7.Reichtum ohne Gier

Sahra Wagenknecht ザーラ・ワーゲンクネヒト

左翼政党の人気政治家が暴走する資本主義を診断し対抗策を論じる。

8.Finger weg von unserem Bargeld!

Peter Hahne ペーター・ハーネ

500ユーロ札廃止で本格化する現金ナシ社会に反対する情熱の書。

9.Gelassenheit

Wilhelm Schmid ウィルヘルム・シュミット

老いていく人が持つべき「落ち着き」とは。

10.Zwischen zwei Leben

Guido Westerwelle/Dominik Wichmann ギド・ウェスターウェレ/ドミニク・ウィヒマン

病で死を前にした前独外相が公私にわたって人生を語る。