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「出自とは何か」を深く考える 

世界の書店から
田辺拓也撮影

Herkunft(出自)』の著者サーシャ・スタニシチは、旧ユーゴスラビアのドリナ川河畔の町ヴィシェグラードでボシュニャク人の母とセルビア人の父の間に生まれた。一家は1992年に勃発したボスニア紛争を逃れてドイツ南西部のハイデルベルクに移住。当時14歳の彼は、現地の学校へ通い、後にドイツ語で創作を始める。

 2006年の自伝的デビュー小説『兵士はどうやってグラモフォンを修理するか』は大ヒットし、約30の言語に翻訳された。本書は著者が実名で登場し、より自伝的である。舞台はドイツとボスニアを行ったり来たりするが、今回、特に重要なのは、著者のドイツでの体験だ。

 著者の一家はハイデルベルク郊外の殺風景な工業地区に暮らし始める。近くのガソリンスタンドの駐車場は、さまざまな国籍や民族的な背景を持つ難民の少年たちのたまり場だった。著者によると、少年たちの間では、どこから来ようが特別扱いされず、「出自は争いの種にしない」という暗黙のルールがあった。

 著者がこんなことを指摘するのは、故郷の学校で正反対のことを経験したからだ。ある日、セルビア人の生徒が、ボシュニャクとセルビア、クロアチアの欄のある紙を示し、生徒たちに自分が所属する「出自」の欄に名前を書き入れるよう求めた。とたんにボシュニャク人の生徒が反発して小競り合いが起き、教室内は大騒ぎになる。

 ほどなくして、ボシュニャク人に対して腕に白い布を巻くよう強制する町が出てきた。そのうちに「出自は紛争に値する」ようになり、出自の異なる人々を殺したり、レイプしたりして追い出す「民族浄化」につながった。

 今またドイツを含め欧州で排外感情と自国の利益優先のポピュリズムが強まっている。著者は「出自」の意味を考え直したくなり、本書を執筆したという。

 彼にとって出自とは、「ドイツ人か、外国人か」といった二者択一でなく、今の自分を成り立たせるいろいろな要素の集合体だという。そこには血縁も、地縁も、言語も、文化も、居住する国も、個人的な体験も含まれる。ハイデルベルクのガソリンスタンドのたまり場も、紛争もまた、著者にとって自身を構成する重要な要素で、みずからの「出自」なのである。  (ここまで書いていて思い浮かんだこと)

■『GRM』 AIと民営化、突き進んだ先の近未来

本の題名『GRM』の意味が分からず書店の店員に尋ねると、「グライム(Grime)」の略だそうだ。グライムとは、ヒップホップなどから派生した英国発祥の音楽ジャンルで、若者に人気があるという。本書の紹介動画をウェブサイトで見るよう勧められ、さっそく実行した

ビートの利いた音楽が流れ、廃虚となったビルを背景に、フードを目深にかぶった少年が登場。《やつらは他人から何かを奪うチャンスを逃さない》《やつらは邪魔するものは何もかもぶっつぶす》と語り、最後に《戦争をお望みなら、相手になるぜ》というセリフが聞こえ、廃虚の中にいた少年が仲間たちとグライムに乗せて体を揺らす。

この瞬間、私には世界有数の資産家でもある米投資家ウォーレン・バフェットの発言が思い出された。リーマン・ショックの前で10年以上前だが、彼は米紙で、「富裕な人が貧乏な人と戦争をしていて、自分が属する金持ちの陣営が勝つ」という趣旨の発言をして物議を醸した。その後も貧富の格差は拡大するばかりで、市場の自由競争を重んじて格差を容認する新自由主義の話になると、今でも当時の彼の発言が持ち出される。

『GRM』のテーマは、民営化と人工知能(AI)の普及だ。著者は東ドイツ生まれの作家でスイスに在住。彼女はドイツの将来がどうなるか知りたいと思い、民営化が進み、その結果、AI導入に抵抗が少ない英国で、1年あまりかけて人々の話を聴き、本書が生まれたという。

小説の舞台は、英中部マンチェスターの近くの町ロッチデールと首都ロンドンである。設定はあまり遠くない未来で、英国のEU離脱は成就し、経済で中国企業の影響が強まっている。警察と軍隊は民営化され、福祉予算のカットも力強く進行中。

物語の中心人物は思春期にある子どもたちだ。物語の中で、少女は7歳になると化粧をし、セックスの初体験は平均10歳と低年齢化。インターネット上でのポルノ閲覧も常習化している。

主人公はドン、ハンナ、カレン、ピーターの4人の仲間で、ドンは母親が黒人である。この少女には注意欠陥・多動性障害があり、父親には愛人がいて帰宅しない。母親にも愛人がおり、この男はドンと性的関係を持とうとする。ハンナはアジア系の家庭で育ったひとりっ子で、優しかった母親は銃撃事件に遭遇して死亡し、父親も後を追って自殺。カレンは母子家庭で育ち、好きになったパキスタン系の少年から薬を飲まされて意思を奪われ、ロンドンから来る複数の男相手に売春を強要される。仲間で唯一の男の子のピーターは最近ポーランドから来たばかりで、母子家庭のひとりっ子。自閉症で、ハンナに手を握ってもらわないと不安で仕方がない。

子どもたちの目には、周囲の大人は「負け組の落後者」と映る。それは失業しているせいだ。それまでは肉体労働が機械に代わるだけだったのが、今度は頭脳労働が合理化される。仕事の手順がアルゴリズムで定式化できるとAIの出番になる。この結果、本書の中では、職を得ることはぜいたくである。プログラマーになって勝ち組に入ろうとしても、その種の仕事ほど定式化されやすい。もはや本人の努力の問題でなくなりつつある。

私たちのモラルは、仕事をし、それが金銭で報われるシステムのなかで機能してきた。今や仕事を失い、作品に登場する人物は大人も子どもも、貧富を問わずほとんど話さない。その人間関係は、セックスと暴力に支配されていて、不気味である。

医療サービスなどの社会保障がどんどん削減される一方、住民は精神に作用して元気にしてくれる薬剤を安価に入手できる。またスマホなどの情報端末は国家から支給され、オンラインサービスを使った暇つぶしにはこと欠かない。

本書で4人の少年少女が抵抗に踏み切るきっかけになったのは、最低限の生活費が国家から支給される「ベーシックインカム」の導入である。受給の条件として、国民は個人情報だけでなく、皮下チップを埋め込んで健康データを提供することに同意しなければならなくなった。また、個人の支払い能力などをもとに国民を格付けする制度に似た「ソーシャルスコア」が導入され、素行が良い人には支給額が増える完璧な監視社会に移行する。

本書の読者の中には、物語が英国の未来でなく、現在のドイツ社会もこの方向に向かって歩みはじめていると感じる人も少なくないようだ。

■『Kaffee und Zigaretten 』 憎悪の感情は人間の愚かさゆえか

本書には、小説でなく、思い出、人物論、軽妙なエピソードなど48点が集められている。半ページにも満たないものから9ページのものまであり、内容も多岐にわたる。

題名の『Kaffee und Zigaretten(コーヒーとたばこ)』は、著者が執筆する時に欠かせない品である。そのために題名に関連するエピソードも出てくる。その一つは、ヘビースモーカーで知られた故ヘルムート・シュミット元西独首相(1918~2015)のもので、メンソール味のたばこをひっきりなしに吸う。彼にとって味などはどうでもよく、自分もいつか死ぬ存在であることを絶えず意識するために喫煙していたという著者の指摘は面白い。

ドイツ人読者が関心を抱くのは、著者の自伝的側面である。その理由はフォン・シーラッハ家が貴族としてドイツでは特別な名家であるからだが、それだけでない。フェルディナントの祖父バルドゥールはヒトラーを崇拝し、第三帝国で青少年教育を担当していた。当時から、御曹司と成り上がり者集団ナチとの結びつきは奇妙とされた。

バルドゥールは、第2次大戦中はウィーン大管区の指導者で、ユダヤ人連行の責任者であった。彼はこの罪のために戦後、戦争指導者を裁くニュルンベルク裁判で20年の禁固刑に処される。孫のフェルディナントが子どもの頃、石造りの壁に囲まれた公園のような大きな庭のある家に住んでいたことや、15歳のときに自殺をしようとしたことが読者に明かされる。

本書の面白いエピソードの一つは、ウクライナ人女性弁護士が、著者とベルリンのポツダム広場にある喫茶店で話す下りだ。彼女は、東部ウクライナで人々が監禁されて拷問されたり殺されたりしていると憤慨する。そのうちに、話が彼女の家族に移る。祖父母はウィーンに住んでいたユダヤ人で東欧へ連行されたが、子供だった彼女の母親は途中で逃げ、ホロコーストの運命を免れた。ということは、ウィーン大管区指導者だった著者の祖父バルドゥールが彼女の祖父母を死に追いやったことになる。

著者は、祖父が反ユダヤ主義者だったことを示す「欧州で活動するユダヤ人は誰もがヨーロッパ文化に危険をもたらす」とか、「(彼らを)連行することこそ欧州文化に対する大きな貢献」とかいった発言を紹介。その上で「祖父の、このような発言や行動に対する怒りと恥ずかしさから、自分は今の私になった」と告白する。

著者は、ドイツで反ユダヤ主義が再び強まることを心配している。そのために、彼はウクライナ人女性に「どうして非人道的な罪が繰り返されるのだろうか」と尋ねる。彼女は、ホロコーストとウクライナでの犯罪は同一視できないとしながらも、「どちらも憎悪から始まる」と語る。彼女の見解では、人間は、愚かであるために憎悪を抱くようになるという。

このような見解はときどき耳にするが、本当だろうか。実情は、愚か者扱いされるから憎悪が生まれるのではないのだろうか。

前述したシビレ・ベルクの『GRM』を例にすると、ウォーレン・バフェットの「戦争」に負け続けている人々がいる。ここで富の偏在を是正しないで、彼らを監視体制に組み込もうとするなら、これは負け組を愚か者として軽視することであり、憎悪を植え付けるのに等しいのではないか。

ドイツには、未来に漠然と破滅的なことが起こることを心配する人が少なくないが、このような事情と無関係ではないだろう。

ドイツのベストセラー(フィクション部門)

 5月4日付Der Spiegel誌より

1 Menu surprise

Martin Walker マーティン・ウォーカー

「警察署長ブルーノ」シリーズ。今回はグルメと著者の本職の国際関係。

2 Kaffee und Zigaretten

Ferdinand von Schirach フェルディナント・フォン・シーラッハ  

ドイツを代表する作家の随想、人物論、批評など48の小品集。

3 Die ewigen Toten

Simon Beckett サイモン・ベケット 

閉鎖された病院の解体中、設計図にない密室と死体が見つかる。

4 GRM

Sibylle Berg シビレ・ベルク

貧富の格差と人工知能による監視社会に反逆する4人の少年少女。

5 Der Bücherdrache

Walter Moers  ヴァルター・メース  

本からできた「書物の竜」は経営不振の書店を助けない。

6 Mittagsstunde    

Dörte Hansen デルテ・ハンゼン

北ドイツのライ麦畑が広がる村落を舞台に時代の変化を映す人間模様。

7 Herkunft

Saša Stanišić サーシャ・スタニシチ 

戦乱のユーゴからドイツに逃れて来た著者の自伝的要素の強い作品。

8 Das Verschwinden der Stephanie Mailer

Joël Dicker  ジョエル・ディケール  

20年前に解決したはずの事件が蒸し返される。

9 Die Splitter der Macht

Brandon Sanderson ブランドン・サンダースン

幻想小説「嵐光録」第6巻。秘密の教団をさぐりに山奥に行く女性。

10 Die Liebe im Ernstfall

Daniela Krien ダニエラ・クリーン  

旧東独で若くして東西統一の「苦い自由」を経験する5人の女性。

ドイツ「インダストリー4.0」の現実

概要

インダストリー4.0は、熱心な人々が政治的に支援されて進めているところがある。ところが、最近二つの大きな事件があった。ドイツのロバート・ボッシュが半導体の新工場を建設することと、米国のIBMがミュンヘンにモノのインターネット(IoT)の戦略拠点を立ち上げたことである。どちらも今後の展開を探る上で示唆的だ。

……………………

もうかなり前からドイツでは「XX4.0」という言葉をよく目にする。「労働4.0」とはドイツ連邦労働・社会省が出している「労働白書」である。その他にも「教育4.0」「科学4.0」「年金4.0」「連邦軍4.0」といった具合に「XX4.0」という言葉を目にする機会が増えている。ちなみに、最後の例はドイツ連邦軍に対するサイバー攻撃がテーマである。

これらの言葉の震源地は「インダストリー4.0」で、工業立国ドイツはこれからの技術変化を乗り切らなければいけないし、政治サイドもその準備をおろそかにしていないという意思表示である。「4.0」の前にくるテーマは変わっても、そのメッセージはいつも似たようなものである。

工業立国の眼鏡
このような現象を見ていると「インダストリー4.0」は政治的スローガンとしては大成功を収めていることになる。同時に、この表現を耳にする関係者の中には宣伝くさいと思って眉をしかめる人がいるのも、この事情と無関係でない。また「インダストリー4.0」推進の音頭取りをしている人々にはITやソフトウエアの関係者が多く、彼らが自分たちの業界の繁栄のためにしているのではないかと疑う人も少なくない。

ワットの蒸気機関により機械を動かして生産するようになった第1次産業革命、20世紀に入り電気を利用する流れ作業や大量生産を可能にした第2次産業革命、1970年代後半に本格化したエレクトロニクスやIT技術が可能にした製造工程のオートメーション化である第3次産業革命、そしてこれに続くのが第4次産業革命、ドイツが推進している「インダストリー4.0」になる。

このような説明に対して、第3次産業革命とともに始まったデジタル化を進めているだけで、それを革命と呼ぶことに違和感を覚える人もいるようだ。「インダストリー4.0」の説明を聞いた日本の経営者が「自分たちも似たようなことをやっている」とコメントしたこともこうした事情を物語る。

次の批判は少し趣を異にする。「インダストリー4.0」を第4次産業革命に例えることによって多くの人々の注目を集めようとすることは肯定できても、工業立国ドイツの従来の「眼鏡」で現在進行中の現象を見ることにならないだろうか、ということである。その結果は人々の関心が工場に限定されてしまい、話は「スマートファクトリー」のことになる。ところが、このまま進んでいくと人間と機械の関係がすっかり変わってしまうともいわれる。そのときにも今と同じようなビジネスができるかは、かなり疑問である。昔からよくいわれるように「機械は機械を買わない」からだ。

このような事情から「インダストリー4.0」の推進者も今や全体が進む道をデジタル化と呼び、モノのインターネット(IoT)、ビッグデータ、サイバーフィジカルシステム、クラウドコンピューティング、プラットフォームビジネス、スマートシティーなど、より具体的になり、少しは経済や社会的側面に関心が向くようになってきた。

政治家は「インダストリー4.0」キャンペーンの先頭に立って「バスに乗り遅れるな」式の激励をしたがる。一方で事情を知る者がいら立ちを覚えるのは、政治の方こそ「するべき宿題」をしていないからであろう。それはデジタル化のための政策的支援だが、教育の充実、法整備、技術的スタンダードの作成など多岐にわたる。ここでは、よく指摘されるデジタル化の技術的インフラ不整備について触れる。

下の表は、少し前のドイツの新聞に掲載されたインターネットのスピードの国際ベストテンである1。ドイツは14.6メガビット/秒(Mbit/s)で25位に位置し、欧州の中でも下位で低迷している。そうであるのは、ドイツでブロードバンドインターネット接続が進まないからである。

【インターネットのスピードの国際ベストテン】
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公衆無線LANのアクセスポイントについては、少し古い2015年の数字で恐縮だが、ドイツには1万人当たり2カ所しかないのに対して、韓国には同37カ所もあるそうだ2。この数は欧州の近隣国はどこもドイツより多く、ドイツは「無線LAN砂漠」と呼ばれている3

次は料金の方だ。同一のデータ量に対して、ドイツではフィンランドの50倍、フランス、英国、デンマーク、スウェーデンの20倍の料金を支払わなければならない4。2015年、筆者が住むミュンヘンには多数の難民が収容された。そのうちの1人のアフリカ人は「メルケル首相は親切だが、ドイツのインターネット環境はあまりよくない」と嘆いた。

半導体ルネサンス
このように見ると、ドイツのデジタル化は政治と経済の連携があまり良くないといった印象を持つかもしれないが、本当はそうとばかりは言えない。「インダストリー4.0」という命名の動機の一つは、この国がマイクロエレクトロニクスの分野で後れを取っていることに対する危機感があったからだといわれる。

例えば、2017年6月末に行われたデジタルサミットの未来戦略についての議論の席上で、ドイツIT・通信・ニューメディア産業連合会(BITKOM)のヴィンフリート・ホルツ最高経営責任者(CEO)は「欧州が全く対抗できない分野はマイクロエレクトロニクスだ。この分野で圧倒的に強いのは米国で、それに対抗する力を持つのは中国だけである。未来の自動車を動かすスーパーコンピューターの優劣を決定するのは、ソフトウエアでなくセンサーの中の回路で、マイクロエレクトロニクスである。私たちの方にもインフィニオンテクノロジーズをはじめ技術力はある。ということは、政治こそ、民間がもっと力をつけるのに役立つ枠組みをつくらなければいけない」と注文をつけた5

ほどなくして、このように考える人たちにとって朗報が流れる。というのは、ドイツの電気メーカー、ロバート・ボッシュ(以下、ボッシュ)がドレスデンに2021年末から稼働する半導体の新工場建設を発表したからである。これまで同社はシュツットガルト近郊で直径150ミリメートルもしくは200ミリメートルのウエハーで集積回路チップを製造していたが、新工場では直径300ミリメートルのウエハーを使うことになり効率が改善される。製造されるのはエーシック(特定用途向けの集積回路)やメムス(微小電気機械システム)である。この工場が本格的に操業を始めると、新たに700人の雇用が生まれるそうだ。

約10億ユーロに及ぶ新工場への投資額は、ボッシュ創業130年の歴史の中で最大だそうである。政府から助成金が出る可能性も高い。同社は創立者の遺志で昔から株式会社でなく有限会社で、その資産は公益財団に属し、ドイツではその手堅い経営で有名だ。この点を考慮すると、今回の投資の意味は大きい。

周知のように半導体は価格競争も激しい厳しい業界であるが、IoTや自動走行技術、また電気自動車の普及により、今後需要が増えるとみられている(2015年に出されたプライスウォーターハウスクーパース(PwC)のスタディーによると、需要は2019年まで毎年5.2%増大するそうだ)6
それだけでない。ボッシュの取締役会メンバー、ディルク・ホーハイゼル氏は「未来の鍵となる技術は自社に置いておき、納入業者に任せたくない。(よそから入れる方が安くつくのでは、という質問に対して)経済的にはそうかもしれないが、私たちは持続性と独立性を重視する」と述べた7

M0305-0044-2ワトソン・IoT・センター
2017年2月16日、ミュンヘンに米国・IBMの「ワトソン・IoT・センター」(左の写真、筆者撮影)が開設された。同社はこの町で一番高いビルの15階から29階までを借りて、コグニティブ・コンピューティング・システム「ワトソン」を活用してIoTの世界戦略を展開するという。この事業部門のために30億ドルの投資が予定されており、ミュンヘンの拠点設立だけで2億ドルもかかったという。

ドイツの人々の関心を呼んだのは、パートナー企業が同じビルに入居し、IBMの社員と一緒に働く方式である。この協力関係には、英語の「コーオペレーション」と「ラボラトリー」を合わせた「コラボラトリー」という単語が当てられる。すでに入居していたり、その予定であったりする企業としては、ドイツのBMW、ボッシュ、車両・産業機械での精密部品を製造するシェフラー、フランスの銀行大手BNPパリバ、ITコンサルティングのキャップジェミニ、スイスの産業用ロボットで有名なABBグループ、またインドのIT大手テック・マヒンドラ、米国のITディストリビューター、アヴネットなどが挙げられている。

でも、これだけではIBMが借りた6万5000平方メートルのオフィスは一杯にならない。IBMのジョン・E・ケリー3世研究担当シニア・バイス・プレジデントは、オープニングの席上で「空いた部屋はまだたくさんある。でもこれもすぐ変わる。とにかく私たちは工業の心臓部・欧州のど真ん中・ミュンヘンに来たのだから」と述べた8

IBMは、ワトソン・IoT・センターによって二つの目標を追求するという。一つ目の目標は「IoTのポテンシャルを技術的にも経済的にも探る」こと、二つ目の目標は「ミュンヘンのIoT拠点の設置によって、IBMが人工知能(AI)とIoTを中心にグローバルで新たなイノベーションエコシステムを立ち上げることを世界中にデモンストレーションする」ことである9

後者のイノベーションエコシステムの例の一つは、ミュンヘンに本社を置く自動車メーカー、BMWとの協力である。同社の開発研究の一部がワトソン・IoT・センターのコラボラトリーに移り、IBMの研究員と一緒に「コグニティブ・コンピューティング・システム、ワトソンの対話能力と学習能力が、ドライバーに役立つようになる基盤を探ることが予定されている」という10。これは、ドライバー個人の好みと習慣に合ったクルマづくりを今後も続けるためである。自動走行になっても、ドライバーのフィーリングというドイツ車の長年の強みを維持しなければならない。自分で運転しなくなったらタクシーと変わらなくなり、クルマが売れなくなるかもしれないからだ。

IBMのミュンヘン拠点設立に関して重要と思われるのは、企業だけでなく、エーエブス(EEBus)という公益事業団体が入所する点である。今や「エネルギーのデジタル化」とか「エネルギーのインターネット」などと呼ばれ、電力の消費側と供給側をITで結び付けて効率的にしようとする努力がなされている。これは風力や太陽エネルギーを使うドイツでは特に重要だ。EEBusはドイツ政府から委託されこのエネルギーのデジタル化の模範プロジェクトを実施し、同時にIoTの標準化を推進している団体である。日本ではあまり知られていないこの団体には、多数の電気・電力関係の企業や、ドイツ自動車工業会といった業界団体が加盟している。しかしそれだけでない。技術検査協会、電気・電子・情報技術協会といった基準を決める機関も会員であることが重要だ。

2017年のデジタルサミットでもそうだったが、関係者が集まると、欧州連合(EU)内での規格の標準化が要求される。このようなEU内統一市場の形成に関する折衝では、政府レベルだけではなく業界のインタレストを代行する団体が重要になるが、デジタル化についてその役割を演じるのはEEBusである。このような事情があるからこそ、この団体がIBMから協力を要請され、ワトソン・IoT・センターの中でオフィスまで委ねられることになったのである。

ワトソン・IoT・センターのオープニングの席上、エストニア出身のアンドルス・アンシプ欧州委員会副委員長(デジタル単一市場担当)はデジタル統一市場の早期実現を熱心に訴えた。ドイツのコンピューター専門誌によると、ボッシュ・ソフトウエア・イノベーションズのライナー・カルテンバッハCEOは、政治サイドが介入するのではなく、市場の進展に委ねるべきだと記者に語ったという11。これは政治家が演説し、経済界が決めるというEUではよくある光景である。同時に、標準化が欧州と米国との関わり合いでどのように進展するかを考える上でも示唆的である。

情報こそ21世紀の原油?
今や90億のデバイスがインターネットとつながっていて、そこから毎日膨大な量のデータが生み出されるといわれる。今後IoT市場が拡大すればするほどこの量も増える一方で、データは垂れ流しにするのではなく役立てることが重要だとされる。こうして「情報こそ21世紀の原油」といった言葉がドイツの政治家の演説にも登場するようになった。

ミュンヘンのワトソン・IoT・センターに入所するような大企業は「21世紀の原油」探しに出掛けるかもしれない。ところがドイツには、製造業の分野で国際的に活躍している中小企業が多数あるが、彼らからはそのような勇ましい雰囲気は感じられない。これに関連して「デジタル化の心理」という面白いアンケート調査がある12。これはIT企業の委託により、イノベーション・アライアンスが従業員数250人以上の中小企業500社を選び、デジタル化について調査したものだ。

この調査結果については、ドイツの経済週刊誌でハイテク専門家のミヒャエル・クローカー氏が解説している13。それによると、全体の75%がデジタル化を「出席が義務付けられた行事」、また50%が「冒険」と感じ、30%が「聞いただけで不安になる」と回答した。とはいえ商工会議所や業界団体の説明会が開かれると、知らん顔をしているわけにいかない。またこうした不安は「バスに乗り遅れるな」式キャンペーンの反映でもあると思われる。
次に、デジタル化がどの程度まで進んでいるかという質問に対する回答は「始めるところ」が18%、「2、3歩進んだところ」が37%、「熱心に検討している」が27%、「半分進んだ」が12%である。

「インダストリー4.0」が推進される前から、製造現場でもオフィスでもデジタル化は行われている。当初は、合理化やオートメーション導入によってコストを削減し利益率を増大できると思われていた。ところが、今回はそのような意味で前進することができない。そうであるのは、IoTに関連してデータの安全性について多くの人が不信感を抱いているからである。どの国のアンケート調査でも、この点が指摘される。また上記の「半分進んだ」と回答した12%とは、IoT推進を始めた企業だとされる。

長年「物づくり」に励んできたドイツの企業にとって、自社内に大事にしまっておく情報やノウハウについて、便利で安全だと言われても、クラウドコンピューティングによって外に出す気になれないのは当然かもしれない。多くの中小企業には経営者個人の資産がかかっている。「もうかる話にいつも飛びついてばかりいたら、自分の会社など今存在していない」と吐き捨てるように言った人もいる。

ドイツには「隠れたチャンピオン」と呼ばれ、国際市場のニッチ分野で高いシェアを占めている中堅企業がある。彼らは特別な製品やサービスを限られた顧客に提供し、昔から技術とノウハウを養い健闘してきた。そのような企業は「プラットフォームビジネス」などと言われても、インターネットの「のみの市」に自社製品を出すことに大きなメリットを感じないかもしれない。

ドイツの全ての企業が「隠れたチャンピオン」ではないが、それでも似たような考え方を持っていて、IoTと言われても何を始めていいのかぴんとこない企業も少なくないのかもしれない。2017年に入ってからITに特化する調査会社インターナショナル・データ・グループ(IDG)のスタディーが発表されて反響を呼んだ。というのは、ドイツの企業の50%以上が「3年後にIoTが重要になる」と回答したからである。ということは、大多数の企業は今のところはIoTの推進について積極的に考えていないことになり、推進派や政治家の「ドイツがバスに乗り遅れる」という心配をあらためて強めた14

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1 http://www.handelsblatt.com/technik/hannovermesse/surfgeschwindigkeit-diese-laender-haben-das-schnellste-internet/11825064.html
2 https://www.youtube.com/watch?v=9TZskBnpSOk
3 https://www.welt.de/wirtschaft/webwelt/article153354781/Deutschland-blamiert-sich-als-WLAN-Wueste.html
4 https://www.welt.de/wirtschaft/webwelt/article141320502/Deutsche-zahlen-gewaltig-fuer-winziges-Datenvolumen.html#cs-DWO-WI-Teures-Datenpaket-Aufm-jpg.jpg
5 https://www.youtube.com/watch?v=pj-5c6Ep8cg
6 http://www.pwc.de/de/technologie-medien-und-telekommunikation/pwc-studie-prognostiziert-boom-in-der-halbleiterbranche.html
7 http://www.manager-magazin.de/unternehmen/it/bosch-baut-chipfabrik-milliarden-investition-in-dresden-a-1152881-3.html
8 http://www.wiwo.de/technologie/digitale-welt/eroeffnung-des-watson-iot-centers-in-das-herz-des-industriellen-sektors/19402544-2.html
9 http://www-03.ibm.com/press/de/de/pressrelease/51632.wss
10 http://www-03.ibm.com/press/de/de/pressrelease/51251.wss
11 https://www.computerwoche.de/a/ibm-watson-iot-hauptsitz-in-muenchen-eroeffnet,3329889
12 https://www.innovationalliance.de/studie-psychologie-der-digitalisierung/
13 http://blog.wiwo.de/look-at-it/2017/01/09/die-psychologie-der-digitalisierung-jeder-dritte-mittelstaendler-empfindet-negative-gefuehle/
14 https://www.computerwoche.de/v/studie-industrie-4-0-deutsche-unternehmen-verschlafen-den-start,1039230

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(2017年8月3日作成)