ミュンヘン旧市街を東に向かって少し歩くとイーザル川にさしかかる。そこには人工的運河と自然を残す川の間の中州があり、そこに立っているのが有名なドイツ博物館だ。これは世界最大の科学技術博物館で、多数の展示物を通じて技術の歴史を跡づけることができるために、いつ行っても多数の見学者で賑わっている。
この周辺は歴史的経緯があって技術と関係が深い。中州から町の中心方向を眺めるとガラス張りのモダンな建物がある(写真下)。これは欧州特許庁・EPOで、隣にはお役所らしい古臭い赤煉瓦の建物がある。これはドイツ特許・商標庁だ。
写真撮影は筆者
特許の出願・取得件数
毎年欧州特許庁からその活動についてのいろいろな数字が発表される。特許についてドイツと日本の企業の違いが面白い。例えば、出願者別の特許出願件数順位がそうだ。下の表1は2015年のもので、特許申請にはコストがかかるので件数の多い出願者は大企業ばかりで、けっきょく企業特許出願件数ベストテンになる。ちなみに表の一番下段の数字は出願件数である。
表1:2015年度出願人別のEPOへの欧州特許出願件数 [1]
1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 | 9位 | 10位 |
フィリップス | サムスン | エルジー | ファーウェイ | シーメンス | UTC* | クアルコム | ボッシュ | BASF | GE |
2402 | 2366 | 2091 | 1953 | 1894 | 1869 | 1705 | 1493 | 1384 | 1316 |
特許出願件数が多いことは、経営陣が短期的な収益にばかりに目を向けているのでなく、研究開発のために支出し、長期的に企業の未来に備えている証拠だとされる。下の表2は2007年から2014年までの欧州特許出願件数・企業ベストテンで、各社の出願件数は割愛した。この表は企業の浮き沈みをしめし、特許が未来の備えにならなくなったケースもある。
表2:2007年から15年までの出願件数企業順位
年 | 07年 | 08年 | 09年 | 10年 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 |
1位 | フィリップス | フィリップス | フィリップス | シーメンス | シーメンス | サムスン | サムスン | サムスン |
2位 | サムスン | シーメンス | シーメンス | フィリップス | フィリップス | シーメンス | シーメンス | フィリップス |
3位 | シーメンス | サムスン | BASF | BASF | サムスン | BASF | フィリップス | シーメンス |
4位 | BASF | BASF | サムスン | サムスン | BASF | GE | エルジー | エルジー |
5位 | パナソニック | ボッシュ | ボッシュ | クアルコム | エルジー | エルジー | BASF | ファーウェイ |
6位 | ボッシュ | クアルコム | エルジー | ボッシュ | クアルコム | ボッシュ | ボッシュ | BASF |
7位 | エルジー | エルジー | パナソニック | パナソニック | GE | クアルコム | 三菱電気 | クアルコム |
8位 | ソニー | パナソニック | バイエル | ソニー | ボッシュ | 三菱電気 | GE | ボッシュ |
9位 | ノキア | NXP | クアルコム | エルジー | エリクソン | エリクソン | クアルコム | エリクソン |
10位 | 富士通 | トヨタ | ソニー | バイエル | 三菱電気 | ZTE | エリクソン | インテル |
表2では、欧州の企業ではドイツのシーメンス、ボッシュ、BASFの三社、オランダのフィリップス社、韓国のサムスンとエルジー、米国のクアルコム社がベストテンの常連である。日本や米国やスウェーデンや中国の企業もときどき顔をだす。日本企業がベストテンから消えていくのをみて日本からイノベーション能力がうしなわれたと思うかもしれない。
でもかならずしもそうでないことは、WIPO(世界知的所有権機関)から発表された表3(下)の2015年度の数字からもわかる。これは特許協力条約(PCT)に基づいて出願された国際特許件数の出願者別順位である。中国、米、韓国、日本からそれぞれ2企業が、欧州からはスウェーデンのエリクソンとオランダのフィリップス社がベストテンに登場しているが、表1と2の欧州特許庁のドイツ常連企業の姿は見えない。
表3:特許協力条約(PCT)に基づく2015年度の国際特許出願順位[2]
1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 | 9位 | 10位 |
ファーウェイ | クアルコム | ZTE | サムスン | 三菱電機 | エリクソン | エルジー | ソニー | フィリップス | HP |
3598 | 2442 | 2155 | 1683 | 1593 | 1481 | 1457 | 1381 | 1378 | 1310 |
表4:2015年度EPO特許取得件数ランキング
1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 | 9位 | 10位 |
ボッシュ | エリクソン | シーメンス | サムスン | エルジー | GE | フィリップス | BASF | ファーウェイ | パナソニック |
1142 | 717 | 704 | 703 | 701 | 667 | 608 | 517 | 498 | 481 |
特許は本来出願件数より取得件数のほうが重要である。上の表4は欧州特許庁が発表した2015年度の取得者別の特許取得件数順位である。表1や2のEPO出願者ベストテンリストに似て、ドイツをはじめ欧州の企業、韓国の会社が活躍している。日本企業は10位にパナソニックが顔をだしているだけだ。とはいっても、14位にトヨタ(433)、16位にキャノン(401)といった具合に50位までに12社も日本の会社が入っている。
このような欧州特許庁の数字と対照的なのは米国特許商標庁(USPTO)から発表される2015年度米国特許取得ランキングリストだ。ベストテン(下の表5)には地元米国の企業が5社、日本はキャノン、東芝、ソニーの3社が、韓国も2社が入っているが、ドイツの企業はいない。
表5:2015年度米国特許取得件数ランキング[3]
1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | 6位 | 7位 | 8位 | 9位 | 10位 |
IBM | サムスン | キャノン | クアルコム | 東芝 | ソニー | エルジー | インテル | マイクロソフト | |
7355 | 5072 | 4134 | 2900 | 2835 | 2627 | 2455 | 2242 | 2048 | 1956 |
表5は10位までで、11位から50位までに入っている企業を眺めると、日本はリコーが15位、セイコーエプソン16位、トヨタ17位、パナソニック18位、富士通19位と続く。ベストテンに入って3社を加えると、50位までに全部で15社も入っている。50位までには、韓国は3社、中国は1社が登場するだけだ。
欧州の企業は、スウェーデンのエリクソン社が20位に、ドイツからはボッシュとシーメンスの2社が25位と32位に、オランダのフィリップス社が37位に入っているだけである。米パテントに関して欧州勢は、特に独企業は、その存在感が希薄で、またその取得に熱心でないようにみえる。
数字の背後
ここまで特許出願数とか取得数とかいった数字に注目して現象をなぞるだけだったが、今からその背後にあることを考えてみる。
まず奇妙な欧州の特許制度で、欧州特許条約でできた欧州特許庁(EPO)とその加盟国の国内特許庁とが併存する複線方式になっている。ということは、欧州特許庁で出願国を指定して欧州特許をとることも、各国の特許庁に出願して、そこの国内特許をとることもできる。このような二本の複線方式が、すでに批准段階に入っているEU全体に通用する特許が実現すると三本に増えて更に複雑になる。ブレグジット以降、コストもかかるEU特許に本当に需要があるかどうかについての疑いが強まっている。
現在でも、EPO特許にコストがかかるので、ドイツが欧州のなかで一番人口も多くて重要な市場で、また重要な工業国であるために、この国だけで特許を取得しておけばいいと考える出願者は少なくない。特に自動車、機械・電気部品、測定機器など地味な発明はガラス張りの建物の欧州特許庁を避けて、赤煉瓦のドイツのほうに行くことが多かった。
2015年度ドイツ特許・商標庁の総出願特許件数は66899件であるが、そのうちドイツ国内からが47377件で、これは70.8%に相当する。外からは日本が6424件(9.6%)、米国が6147件(9.2%)、韓国が1423件(2.1%)で、その後にオーストリアとスイスが続き、中国は636件で1%にも及ばない[4] 。
欧州での特許取得経験が長い日米企業は内容によってドイツ国内特許を申請したり、欧州特許にしたりしている。ということは、EPOの数字だけでは欧州での特許の実情がわからない。ちなみに2015年度の欧州特許庁の総出願件数は160022件もあるが、その数が多いのは域内に移行したPCT出願が多いからである。欧州特許庁に直接出願されたのは61725件に過ぎない。ちなみに2015年ドイツ特許庁に直接出願された特許は60446件である。
次の問題は米国と欧州の位置づけに関連する。米特許取得件数の表5とそれについての説明からわかるように、(独企業とは対照的に)日本や韓国の企業は米特許の取得に熱心である。例えば、サムスン社は、表5にあるように、米国で5072件もの特許を取得したのに対して、表4からわかるように欧州での特許取得件数は703件に過ぎない[5]。
ということは、米国では本当に多数の特許が出願ならびに取得されるのに対して欧州ではその数が少ないことになる。ところが、特許に関連して欧州というと欧州特許条約加盟国でEUより大きくなり、人口も3億あまりに過ぎない米国の2倍近くに及び、住民の購買力も高い。それなのに、どうしてグローバルプレーヤーの企業は米国でがんばるのに、反対に欧州での特許取得を軽視するのだろうか。
これは、米国がハイテックのトップを走り「特許戦争」の天下分け目の決戦場と思われていることや、また独特の法文化をもち、極端な訴訟社会であることにも無関係でない。(今や、フォルクスワーゲンやドイツ銀行が払わなければいけないとされる金額を耳にしてこんな危険な市場はないと思っているドイツ人は多いと思われる。)反対に欧州では厄介な話にならないと思われて特許が軽視されているのではないのだろうか。
ドイツの巨大企業は米国だけでなく、特許取得そのものにあまり熱心でないようにみえる。これは、90年代後半からこの国の大企業の経営体質が変わったからかもしれない。社長も「CEO」とよばれて収入も米国並みになり、短期的収益や配当が優先されるようになった。ドイツは経済がいいといわれるが、これもよく指摘されるが、「隠れたるチャンピオン」とよばれる優良中小企業が活躍しているからである。
アジア特許攻勢
ドイツが十九世紀後半から二十世紀の中頃まで科学・技術の分野で重要な発見や発明をしたこともあってか、この国の関係者がおおらかに構えて、特許取得にあまり熱心でないような印象を受けることもある。
表5: 国別欧州特許出願件数(2015年度)
1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 | ||
国名 | 米国 | 日本 | ドイツ | 中国 | 韓国 | |
出願件数 | 65754 | 50597 | 31670 | 31504 | 18215 | |
シェア | 24% | 18% | 11% | 11% | 6% | |
前年比 | −7.0% | +3.2% | −0.1% | +19.2% | +10.2% |
上の表6は2015年度欧州特許庁(EPO)の国別出願件数である。総数は278867件で、このなかには直接EPO出願特許もPCT出願件数(国際段階)も含まれる。2010年から続いた米、日、独、中国、韓国という出願件数の順位は2015年度も変わらなかったものの中国から追い抜かれるのは時間の問題である。ところが、自国のイノベーション能力を気にするのに、ろくろく話題にもならない。
前世紀の80年代・90年代にもドイツの技術関係者は日本の特許攻勢を体験しているので今回がはじめてでない。当時いろいろな機会に彼らが「我が社では、こんな些細なことを特許にしようなどとは夢にも思いません」と憤慨した。彼らにとって日本側の膨大な出願件数のために「特許の洪水」とよぶしかなく、カルチャーショックであった。それは、彼らが発明について古風なイメージを抱き、特許について異なった考え方をしていたからだ。
当時、例えば、日本側が請求範囲を狭くとり、その分だけ出願件数を増やそうとしているといわれた。日本のほうは自国の特許庁の審査の伝統にしたがって拒絶されるより範囲が狭くても通ったほうがいいと考えていただけかもしれない。でも大量出願に直面したドイツの関係者のなかには「鴨猟に機関銃を持っていくハンター」を連想して苛立つ人もいた。また日本がドイツの「発明」が細切れの「周辺特許」で包囲してライセンス料を値切ろうとしていると考える人もいた。また日本は金儲けばかりで基礎研究をおろそかにしているとも批判された。毎年のようにノーベル賞を日本人が受賞する今では、これらも昔話である。
現在話題になっているのは中国の特許攻勢である。これも、この国が不法な模倣でなく国際社会のルールにしたがう意思表示として肯定的に理解される。中国政府のほうも積極的な特許政策を展開し、出願を助成したり税制上優遇したりしている。中国国内で膨大な件数の特許が居住者から出願される。例えば2014年に80万件以上もの特許が国内居住者から出願された。ちなみに国内居住者からの出願は日本が27万件、米国が29万件であるので中国の件数は圧倒的に多い。
アンケート調査によると半分以上の企業が外国での出願も予定しているそうで、今後欧州でも出願件数が急増すると予想されている。同時に中国の特許の質を疑問視する人は少なくない。また中国で特許出願する独企業に対して、平行して実用新案権の取得を申請するように勧められることが多い。また中国企業が欧州では競争相手の特許を包囲するために事情次第では実用新案権も利用することが指摘される。「中国の特許攻勢が続くと、ドイツの企業は時限爆弾の上に坐っていたことに気づく日がいつか来る」という警告もある [6]。
2015年に中国製造業を改造し世界のトップレベルにもっていく10年計画というべき「メード・イン・チャイナ2025」が発表された。中国によると、ドイツの「インダストリー4.0」の中国版だそうだ。面倒な特許取得の道を歩まないことも多い。この事情は冗談に「中国人のショッピング旅行」とよばれ、「ショッピングリスト」には、半導体製造装置メーカーのアイクストロン社、有名な照明器具のオスラム社といった具合に多数の企業が並んでいるとされる。
(続く)
発行:2016年11月8日
[1]使用されるEPO関係の数字の出典はすべてhttps://www.epo.org/index_de.html
[2] http://www.wipo.int/export/sites/www/ipstats/en/docs/infographics_systems_2015.pdf
[3] http://www.ificlaims.com/index.php?page=misc_top_50_2015
[4] ドイツ特許・商標庁の数字は以下の年次報告。https://www.dpma.de/docs/service/veroeffentlichungen/jahresberichte/jahresbericht2015_barrierearm.pdf
[5] 同上。
[6] http://www.chinabrand.de/fileadmin/user_upload/publications/patentflut_aus_china.pdf