発行:2013/09/02
概要
ドイツでは、メルケル首相に対して親しみやすさから「お母さん」や「お母ちゃん」といった表現が使われている。また、倹約家の主婦というイメージもある。メルケル首相の人気が高いのは、彼女がユーロ危機問題に関して国民に信頼されているからだ。多くの人々は、彼女が国民から預かった「財布」を大事にしてくれると信じているのである。
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もしかしたら、メルケル首相ほど面白い政治家はいないかもしれない。そのためだと思われるが、町の大きな本屋へ行くと、彼女について書かれた本がたくさん置かれている。
「ドイツ国民-アンゲラ・メルケルと私たち」や、旧東ドイツ時代を丹念に調べた「アンゲラ・Mの第一の人生」「メルケル現象」「アンゲラ・メルケル-ためらいの達人」「面目失墜のお母さん」「シュタインブリュックかメルケルか」など多彩だ。
これらの本の表紙には、彼女が若いころの写真や、机で考え事をしていたり困って目をつぶっている写真、彼女が論敵に一矢報いた瞬間の写真などが使われている。また、何かに集中しようとして指と指を合わせる彼女の両手だけが写っている表紙もある(写真上部中央1)。
パーセプションギャップ
欧州各地の財政カットに抗議するデモや大衆紙などでは、メルケル首相の顔写真の鼻の下にヒトラーのひげがつけられていたり、ナチの親衛隊の制服を着せられたりしていることが多い。一方、彼女について書かれた本の表紙にそうした写真が使われていないのは、本の読者であるドイツ国民にとって、ナチのイメージほど彼女に縁遠いものはないからだ。
メルケル首相は米フォーブス誌から毎年のように「世界で最もパワフルな女性」に選ばれたり2、「鉄の女」サッチャー元英首相と比べられたりするが、このような「強い女性」のイメージもドイツ国民にはしっくりこない。
紺色の上着を着た彼女が途方に暮れている表紙の本のタイトルは「面目失墜のお母さん」で、「お母さん(ムッター)」とはメルケル首相のことである。ときには、小さな子どもが使う、より近い母子関係を示す「お母ちゃん(ムティ)」という表現も彼女に対して使われる3。「メルケルお母さん」には「国母」といった、いかめしいイメージはない。
ということは、多くの人は「お母さん」とか「お母ちゃん」と呼ぶほどメルケル首相を親しい存在と感じていることになり、「鉄の女」のようなイメージからも程遠いといえる。政治学者ハインリッヒ・オーバーロイター教授によると、2013年9月22日に予定されている総選挙で野党が彼女に到底対抗できないとみられるのは、この彼女に対する「お母ちゃん」のイメージのためだという4。
国内では「お母さん」扱いされるメルケル首相に対して、国外で「鉄の女」やヒトラーのイメージが生まれるのは、ユーロ危機を機に経済の強いドイツの影響力が強まった結果、欧州支配の野望を疑われるようになったからである。ドイツの影響力の増大は、南ドイツ新聞の外報部の記者によると、国内でなくブリュッセル、パリなどもっぱら国外で感じられるそうだ5。ではなぜ、このようなパーセプションギャップが生まれるのだろうか。
「小切手外交」の延長
戦後の旧西ドイツ時代から、欧州連合(EU)諸国などとの隣国関係はドイツ国民にとって終止お金を払わなければならない、経済大国と政治小国の「小切手外交」であった。ユーロ危機へのドイツの対応も、今までのところは財政破綻しかかったユーロ加盟国を経済援助する話である。こうした経済援助が巨額でまたその効果が不透明であることに不安を覚えても、結局、ドイツは隣国の農業やインフラ整備を助成してきた。
少し前に行われた世論調査6によると、回答者の91%は、ユーロ危機は収束していないと感じている。また、この点がドイツ国民にとって1番の心配の種だそうだ。メルケル首相の人気が高く、9月の総選挙で勝つと予想されているのは、大多数の人々が、この最大の懸案事項において彼女を信頼しているためである。
このことを示すために、メルケル首相が率いるキリスト教民主同盟(CDU)と似た国民政党で、共通の支持層を持つ野党第1党の社会民主党(SPD)でなく、野党第2党、緑の党を例に挙げる。2013年2月の世論調査によると、この党の支持者67%が「ユーロ危機でメルケル首相はドイツの国益を守っている」と回答している。また、緑の党の支持者の47%が「メルケル首相に好感を覚える」と答えた7他、8月に行われた別の世論調査でも、45%が彼女に好感を覚えると回答した8。緑の党の支持者が、本来は与党CDUと政治的に対極的な立場を取っていることを考慮すると、これらの世論調査の結果は興味深い。
メルケル首相のユーロ危機対策が党派を超えて支持されるのは、大多数の国民がユーロ危機を従来の欧州の隣国関係の枠で捉えているからだ。「小切手外交」の延長で考えると、自国の政治家にしてほしくないことは、ヨーロッパのために「大盤振る舞い」したり「白地小切手」を切るような「最大の悪夢」である。彼女は、そんなことはしないと期待されていることになる。
上の写真の本屋には「シュタインブリュックかメルケルか」という本が置いてある。ペール・シュタインブリュック氏は野党第1党である社民党の首相候補だ。世論調査によると9、ドイツの総選挙が米大統領選挙のように与野党首相候補の一騎打ちになった場合、メルケル首相が59%、社民党候補は20%の票を獲得するという。与野党の首相候補の間にこれほど差が生じたことは、これまでにはなかった。
ユーロ危機問題は、今回の選挙戦の争点ではないといわれる。与野党が表立って論争しないという意味ではその通りだ。しかし注目すべき点は、メルケル首相が曲がりなりにもユーロ共同債や預金保険制度の欧州一元化に反対しているのに対し、野党側は「大盤振る舞い」や「白地小切手」の発行に賛成と見なされる発言をしていることである。
隣国でのドイツ政府の緊縮財政反対デモで、メルケル首相がナチ扱いされることは、ドイツ国民の目に彼女が断固として「ドイツの国益」を守っていると映っていることの証拠になる。このような事情から「メルケル首相は困難な状況にもかかわらずよくやっている」と賞賛する声が少なくない。
プロテスタントの牧師の娘
メルケル首相が国外でナチ扱いされることに平気でいられるのは、彼女が旧東ドイツで育ったことと無関係でない。1945年の敗戦で没落したドイツ国家の権利を継承しているというのが、戦後旧西ドイツの国是であった。反対に旧東ドイツの方は、旧ソ連軍がドイツ人民をナチ支配から解放して建国したといわれる。そのため、旧東ドイツで育った人の方が自分をナチと関係がないと思い、露骨なナチ扱いを気にしないことになる。
この点だけでなく、メルケル首相の人気を考える上で、彼女が旧東ドイツで育ったこと、すなわち「アンゲラ・Mの第一の人生」は重要である。繁栄した旧西ドイツよりも旧東ドイツの住民の方に勤勉、質素、誠実、規律、控えめといった昔のドイツの良き性格が残っているとよく言われる10。
メルケル首相はこのような古き良きドイツの体現者だ。無地のブレーザーとズボンといういでたちが多いが、これが勤勉な彼女の仕事着である。彼女の時計は時刻を知るために、またネックレスは彼女の性別を明示するためだけにあると誰かが書いていたが、言い得て妙だ。こうして、彼女が真面目で質素で控えめだという印象が生まれる。彼女はブランド品とは無縁で、ブリオーニのスーツを愛用していたシュレーダー前首相とは正反対である。
メルケル首相は、旧東ドイツの片田舎でプロテスタントの牧師の娘として生まれ育った。ここで重要なのはプロテスタントであるということで、禁欲や倹約、真面目さといったものと結び付く。事実、彼女ほど金銭関係のスキャンダルと無縁の政治家はいない。ちなみに、対抗馬の野党のシュタインブリュック氏は、首相候補に選ばれる前、講演するたびに邦貨で300万円もの講演料を受け取っていたことが暴露されて、庶民からそっぽを向かれるようになった。
「メルケルお母さん」の別のイメージは「シュヴァーベンの主婦」である。南西ドイツのシュヴァーベンの住民は、昔から倹約家であると言われている。このイメージは、2008年に彼女が「収入以上に支出する生活など続けることはできない。そんなことは『シュヴァーベンの主婦』に聞けばいい」と発言したことから生まれた。「メルケルお母さん」は、けなげにも主婦として限られた収入で家計を切り盛りしていることになる。
多くの人々は、メルケル首相が(男性の政治家より)国民から預かった「財布」を大事にしてくれると信じている。また彼女が支出することがあっても、それは必要経費だと考えるようだ。
金融関係者によると、ドイツの総選挙後、再び対ギリシャ追加支援や債務免除が必要になるという。とすると、メルケル首相には「ユーロ危機の関係者」全員を待たさせる力があり、ドイツは政治大国で彼女は「世界最強の女性」ということになる。しかし、国民はそんなことを気に掛けないで、自分たちが抱く彼女に対するイメージにひたすら従うだけなのかもしれない。
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1 筆者撮影。
2 http://www.forbes.com/profile/angela-merkel/
3 http://www.handelsblatt.com/politik/deutschland/bundestagswahl-2013/angela-merkel-die-unbesiegbare/8628984.html
4 同上。
5 Stefan Kornelius:Angela Merkel.の10ページ。著者は南ドイツ新聞の外報部長。
6 http://www.rtl.de/cms/news/rtl-aktuell/umfrage-zur-euro-krise-wenig-optimismus-bei-den-deutschen-30f43-51ca-20-1594530.html この世論調査の詳細は https://www.uni-hohenheim.de/news/eurokrise-interessiert-doppelt-so-viele-buerger-wie-arbeitslosigkeit-2
7 http://www.zeit.de/politik/deutschland/2013-02/gruene-merkel-sympathie-schwarz-gruen
8 http://www.handelsblatt.com/politik/deutschland/bundestagswahl-2013/forsa-umfrage-haelfte-der-gruenen-anhaenger-fuer-merkel-als-kanzlerin/8629080.html
9 http://www.spiegel.de/politik/deutschland/forsa-umfrage-merkel-punktet-trotz-steinbruecks-kompetenzteam-a-901139.html
10 1991年に映画監督のヴィム・ヴェンダース氏が筆者とのインタビューの中で「ベルリン・天使の詩」の撮影に関連して、この点を初めて指摘してくれた。
M304-0005
(2013年8月21日作成)