話すだけでなく理解するために-ドイツ人のメンタリティー(5)

概要

ドイツ人と接するときには、自分の意見をはっきり言わないといけないといわれる。その理由は、彼らが言外の意味にあまり関心を向けないコミュニケーション文化を持つためで、そうであるのは彼らの倫理的理想と無関係ではないようだ。この点を承知していると、ドイツ人の言動も理解しやすい。連載の最終回。

 

今や海外旅行など珍しくないが、飛行機代がむやみに高かった戦後の日本での話である。ドイツへの渡航を前に緊張する人には、いろいろ助言が与えられた。例えば、英語の「イエス/ノー」はドイツでは「ヤー/ナイン」になるが、同意していなければ、はっきりと「ナイン」と言わなければいけないと忠告された。またドイツ人女性が「ナイン」と言ったら本当にそうで、自分の都合の良いように考えたらとんでもないことになると脅かされた男性もいた。

異文化研究ではコミュニケーションに関連して、低コンテクスト文化と高コンテクスト文化が区別される。ドイツは前者の低コンテクスト文化の、日本は高コンテクスト文化の代表国であるといわれる。ここでいうコンテクストとは、発言(テキスト)そのものではないが、それに付随するものである。日本語では文脈と訳されるが、異文化研究においてはその意味はもっと広い。その場の状況やその前後の事情、話し手の身振りや声音、目つきだけでなく、知識や記憶、また感じたり考えたりしていることまでいろいろなものが含まれる。

低コンテクスト文化とは、コンテクストの重要度が低く、言語で表現された部分(テキスト)が重視される文化である。上記の例でいえば、ドイツ人が「ナイン」と言ったらこの発言が重要視されるべきで、自分に好意を持っているとか、親切そうだったといった要因(コンテクスト)ばかりを重視して、脈があると思うのはとんでもない誤解になる。

反対に、高コンテクスト文化の日本人は、気が進まない顔(コンテクスト)をしていれば、相手の方もそのことを分かってくれていると思いがちである。ところが、このようなことは低コンテクスト文化のドイツ人に対しては通用しない。というのは、彼らはコンテクストにあまり注意を向けないからである。彼らにとって重要なのは言語で表現されたテキストの方で、だからこそ、念のためにはっきりと「ナイン」と言った方が良いという助言につながる。

はっきりと言うべき
低コンテクスト文化の国はドイツだけでなく、欧州ではスイス、オーストリア、英国、オランダや北欧諸国、また米国、カナダ、オーストラリアなどもそうであるとされる。ドイツは、自他共に認める低コンテクスト文化である。高コンテクスト文化は日本だけでなく、欧州ではフランス、また南欧・東欧諸国がそうであるとされる。アジア、アラブ諸国、アフリカ、南米諸国なども高コンテクスト文化であるとされ、数からいうとこちらの方がはるかに多い。だからこそ、ドイツで日本人と似たような体験をする人も少なくないのだろう。

例1:「ナイン」と言い損なう
ポーランドに進出しているあるドイツ企業での話である。新しく導入されたソフトウエアについて勉強するために、5人のポーランド人グループが来た。ドイツ企業側の担当者は、勉強ばかりさせるのは良くないと思い、3日目に古い街並みの残る隣町へ連れていって、少し見物した後にビアガーデンへ行き、一緒に夕食を取ることを予定していた。ところが、当日午後6時に待ち合わせの場所に行ったところ、ポーランド人は誰も来ていない。心証を害したドイツ企業側の人たちは、翌日ポーランド人たちと話し合う。彼らにとって連日朝から晩までの勉強は、慣れない英語で説明されることもあってハードである。そのため、当日ドイツ企業側から頭痛薬を提供してもらった人が出て、午後には体調を崩して退席し宿舎に戻った人が2人も出た。このような事情から、勉強の後の街の見物とビアガーデンのプログラムなどが実行されるなどとは考えてもいなかったという。

ポーランドはドイツと地続きであることもあって、(昔の日本と比べて)ドイツ人に対して異文化意識が希薄だったのかもしれない。低コンテクスト文化とは、相手(ポーランド人)の置かれた立場といったコンテクストにあまり注意が向けられない文化である。だからこそ、ドイツ企業側にはポーランド人が街を見物したりビールを飲んだりする気分にあるかどうかといった考えに思いが及ばなかったのかもしれない。また、このような行き違いは「タイムマネジメント-ドイツ人のメンタリティー(3)」(2017年4月11日付掲載)と「仕事と私生活を分ける-ドイツ人のメンタリティー(4)」(2017年6月13日付掲載)で触れたように、立てた予定は実行しないと承知できないことや、メッセージが正式のチャネルを経由しないとドイツ企業側に届きにくいこととも無関係ではない。

例2:気持ちをくんでくれない
ドイツで暮らすある米国人女性の話である。彼女は愛用している携帯オーディオプレーヤーの調子が悪いので修理しようと思ったが、そのためには小さなねじ回しが必要になる。そこで百貨店の時計売り場へ行き、そのようなねじ回しがあるかどうか、どの売り場へ行ったら買えるか聞いた。ところが、時計売り場の担当者は自分のところにも百貨店のどこの店にも売っていないと答えるだけであった。彼女は、時計売り場のドイツ人が気を利かせて街のどこで必要なねじ回しを売っているかという程度の情報を教えてくれると期待していたので失望する。

この話も、多数の例外があるにしても、ドイツでは尋ねられたことに答えるだけで、話し手の願望にまで注意が向けられにくいことを示す。一方、この米国人女性も自分の知りたいことを明確に尋ねるべきだったと思われる。ドイツでは、何かしてほしいことがあれば、その気持ちを察してもらうことを期待しないではっきりと要求しなければならないといわれるが、彼女は素っ気ない問答に意気消沈してそれができなかったことになる。ドイツでは、厚かましいくらいの方が良いのであって、控えめとか慎み深さとかいったことは理解されにくい面もある。例3が示すように、遠慮することも事態を複雑にするだけで面倒なこととされやすい。

例3:遠慮が理解されない
外国人のためにドイツ語の授業をするだけでなく、ホームステイの世話までする、ドイツのある語学学校での話である。一般的にドイツのメインの食事は昼食で、夕食はパンとソーセージやチーズで簡単に済ませる。この語学学校では、食事代もホームステイ料金に入っている。しかしあるとき、中国人の参加者から食事が出されなかったという抗議があった。調べてみると、ホームステイ先の家庭のドイツ人が夕方帰宅した中国人の研修生に食事を取るように勧めると「気を使わないでほしい」といった意味のことを言われて断られたという。そこで、一度だけでなく何度も食事を勧めるようにしたら、このような行き違いがなくなったという。

例4:なぜ会社を辞めるのか?
チェコにある子会社でマネジャーを務めるドイツ人の話である。彼は、仕事に満足していると思っていたチェコ人スタッフが、どういうわけか突然会社を辞めたと嘆く。そこで第三者に調べてもらうと、会社を辞めたチェコ人は、数カ月前から転職しようと思っていたという。その理由は職場の雰囲気が悪く、ただ単に働いているだけになってしまったからだという。

ドイツが低コンテクスト文化圏である以上、話し手のチェコ人は自分の願望や感情、自分の置かれた立場といったコンテクストが配慮されることを期待せず、(ドイツ人の側から見れば)不満があればはっきりと言うべきであるということになる。しかしそう言われても、高コンテクスト文化圏の人間にとって、それはそう容易なことではない。

ここまで例として挙げたのは、ドイツ人が話し相手のコンテクストをあまり理解できない場合であった。しかし厄介な点はそれだけでない。それは、ドイツ人が発言したときに自分の方のコンテクストをあまり考慮しないことである。上司が部下に何か言ったときには、同等の立場でないが、このコンテクストを忘れて発言だけに集中してほしいといわれても、高コンテクスト文化の住人には難しい。

裏表がないこと
このように考えていくと、高コンテクスト文化圏の出身者にとって、低コンテクスト文化圏の出身者とのコミュニケーションは面倒なことのように思われるかもしれない。とはいっても、両方の文化を比べた場合、ドイツのような極端な低コンテクスト文化圏の出身者にとっての方が、問題ははるかに大きいかもしれない。
彼らは発言(テキスト)そのものを言葉通り受け取るように言われ、そうしていればよいと思って育った。その結果、これまでに挙げた例が示すように、話し相手に対する理解不足に陥る危険がある。下手をすると相手を怒らせることもあるかもしれない。ところが、そのことにあまり気づかないでいる場合もある。

反対に、高コンテクスト文化圏の出身者は、話し相手の心理や習慣などのコンテクストが重要であると分かっている以上、他の高コンテクスト文化圏の出身者とコミュニケーションを図った場合、より慎重になり学習能力を持つ可能性が高い。また、低コンテクスト文化圏の出身者と接した場合はもっと楽である。相手が発言(テキスト)を重視することを求める以上、相手の置かれた立場や習慣、心理について変に気を使わなくても済むといえるからである。このような事情から、低コンテクスト文化圏の出身者の方が外部の人に溶け込みやすいとされている。

ドイツの低コンテクスト文化では、自分の思っていることを話し、その通りに理解されることが期待されている以上、コミュニケーションに関して裏表がないことになる。そのため、真意についていろいろ思いを巡らせる必要がない。ドイツでは外交辞令も初めからそれだと分かるものが多い。
このような事情から、ドイツで長年暮らすある東アジアの出身者によると「ドイツの人々はうそをつかない。他人に言ってもいいことと、自分の心の中だけにとどめておくべきことという区別をしない。だからこそ、彼らと話をしていて、発言と真意の隔たりについて迷わなくていい。ドイツには『秘密の意図』という表現などないと私は思っている」という。ここでは本当にそうであるかどうかより、高コンテクスト文化圏の出身者がそう感じたことが重要である。

ドイツ人とミーティングをしていて、出席者の1人が延々と話し始め、何のために話しているのか理解できないことがある。ドイツには「アダムとエバ(イブ)から始める」という慣用句があり、なかなか核心に到達しない長話を意味するが、この表現通りだと思われる。

この「長話現象」も、ドイツが低コンテクスト文化で、話し手が自分の話すこと(テキスト)に気を奪われて、聞き手にどのように受け取られるか(コンテクスト)をおろそかにしがちな証拠ということもできる。そのために、特に高コンテクスト文化圏の出席者には時間の無駄のように感じられるかもしれないが、ドイツ人からはあまり気にされない。この反応の違いは、ドイツ社会での言語の在り方と関係があるかもしれない。

ドイツでは、口頭であろうが文書という形を取ろうが、言語で表現することが盛んである。これは量的な意味でそうであるだけでなく、この国の多くの人々の倫理観の根幹と関係する。地球上にはいろいろな文化があって、親戚になることによって人間同士の信頼関係が生まれると思う人もいる。また中には、温泉へ一緒に行って「裸の付き合い」をすることが信頼関係を深めるという国もあるかもしれない。一方ドイツでは、一緒に風呂に入らなくても、たくさん話すことによって信頼関係を築くことができると考えられている。ということは、言語活動こそ、人間関係の基盤と思っているところがあるのではないかと考えられる。

ドイツ式低コンテクスト文化で信頼関係を築くために重要なのは、裏表のないコミュニケーションである。職場というテーマから少し外れるが、この国で人生の伴侶を見つけた人の言葉には「パートナーと何でも包み隠さず話すことができる」というものが多い。一方、世界には、本当に重要なことは言外にあり、それが言語で表現された途端、価値が失われるとされる文化もある。ドイツの低コンテクスト文化はこれとは正反対で、お互いに正直に話し合い、そこに価値ある人間同士の絆が生まれると見なしていることになる。

ディベート社会
このように言語表現が重要視される社会では、無口な人はどのように扱われるのだろうか。理屈から言うと、影の薄い人になってしまう。だからこそ、昔の日本人はドイツに渡航するに当たって「断固と自己主張しないといけない」と助言された。けんか覚悟で反撃に転じてまともに扱われるようになる体験は、ドイツで暮らす外国人にとって「通過儀礼」の一つとされる。次の例も、このような事情を示す。

例5:こうして一人前になる
あるドイツ企業で人事課長を務める英国人の話である。かなり前から部下の1人がことあるごとに自分を批判する。それも挑発するようにである。その英国人は、初めは知らん顔をしていることにしたが、部下の批判がだんだんエスカレートするので、何か断固とした対抗措置を取って反撃しなければいけないと感じていた。

そのうちにその部下から電話があった。彼はいつもと同じで、いろいろなことに文句をつけ、上司である英国人の態度を非難する。その英国人は待ちに待った逆襲の日が来たことを感じて、少し間を置いてから、声を荒げて「自分の言ったこと、したことは、今でも正しかったと思っている。今からあなたに対しても指摘させてもらう」と述べて、これまで言い損なっていたことを怒鳴るように一つ一つ指摘した。英国人は言うべきことを言い終わったところで一息つき、部下からの凄まじい反撃を覚悟していたが、拍子抜けした。というのは「これでとうとう知り合いになれた。これからはちゃんと議論できる」と部下のドイツ人が言ったからである。

日本をはじめ東アジアの人々は、ドイツ人同士が議論を始めると、その攻撃的な雰囲気のためにいたたまれない気持ちになることもあるようだ。低コンテクスト文化の英国人も似たような経験をするところを見ると、ドイツでのコミュニケーションの在り方は、低コンテクスト文化圏の中でもかなり特別であるのかもしれない。

問題や過ちに気づいたらそれを指摘し、その原因を分析して議論をするということはどこの社会にもある。ドイツでは、既に触れたように徹底的に話し合うべきだとする理想があるために、このディベート志向に拍車が掛かる。また超低コンテクスト文化であるために、議論の本来の目的や意図、自己顕示欲や心理的葛藤といったコンテクスト要因が強く意識されない結果、直面する問題の解決より原因解明の方が優先されることもあるといわれる。

ドイツで働くあるポルトガル人によると、彼の国でこのような口論をしたら、一生恨まれることを覚悟しなければいけないという。高コンテクスト文化の日本人の目にも「しこり」が残るように思われることがある。この点に関して、ドイツには「これはあなた個人に向けられたものではありません」といった意味の決まり文句がある。また、批判に耐える「プロ意識」を持たなければいけないことも強調される。でも、そのようなことを言うのは、低コンテクスト文化圏のドイツでも挑発的で攻撃的に見える議論が感情的「しこり」として残ることを意味する。

とはいっても、このような事情と高コンテクスト文化における議論の在り方を同列に置くことはできない。「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載)や「仕事と私生活を分ける-ドイツ人のメンタリティー(4)」(2017年6月13日付掲載)で示したようなメカニズムが働いて、感情的「しこり」が職場に限定される仕組みになっているからだ。

ここまで、ドイツ社会の人々が発言(テキスト)の内容に集中し、自由に自分の見解を述べて議論になるという低コンテクスト文化的側面を強調してきた。とはいえ、ドイツの職場においても必ずしもそうでない場合もある。例えば、話し手と聞き手の間で序列が離れていたり、個人的関係があったり、社内政治と関係したりすると偏向することがある。また、雇用の不安定さや出世のために「風見鶏」や「ヒラメ人間」が出てくるのも避けられない。

以前、筆者はギムナジウム(大学へ進学する中・高等学校)で半年あまり国語の授業を受け持ったことがある。授業は議論を通じて学習させる方式であった。ドイツ語が母国語でない日本人教師に親しみを感じたせいか、ドイツ人実習生の授業ではあまり発言しない生徒も活発に議論に参加し、指導教官からよく褒められた。

議論が重視されるドイツ社会では、雄弁な人が組織の上の方へ行くことが多い。しかし、発言能力と思考能力はいつも一致しているわけではないので、口達者ばかりが発言しているうちに組織にとって重要な発想の転換の機会が失われてしまうことも少なくない。その後もいろいろな組織と接して、なるべく多くの人に発言させようとする傾向があるのに気づくたびに救われた思いがした。

ここまで5回にわたって、ドイツ人のメンタリティーについて取り上げてきた。もちろん、個人、地域、階層による差があり一般化できないというのは一見正しい。とはいっても東アジアをはじめ他の地域や欧州の隣国と比べると、ドイツ国民に固有の性格があることは否定できないと思われる。日本人がビジネスの上で関係するドイツ人を頭に浮かべて書いたこともあって、ここに書いたものは、どちらかというと教育水準が比較的高い人々の間でよりはっきりと観察される現象である。

※本記事は、特定の国民をステレオタイプに当てはめることを意図したものではありません。

M305-0043
(2017年7月3日作成)