仕事と私生活を分ける-ドイツ人のメンタリティー(4)

概要

どこの国でも仕事と私生活は区別されているが、ドイツでは特に徹底している。そのため、ドイツで働く外国人にとっては心理的に困難な面もあるようだ。また、文化的な背景から仕事をするに当たって重点の置き方が異なることも心得ていた方が、不要な誤解や感情のもつれを前もって避けるのに役立つかもしれない。

 

スマートフォンを手にしている人の姿は、今やどこの国へ行っても目にする。しかし、スマートフォンを使っているだけなら「ながら族」とはいえない。そう呼ぶためには、本来するべきこと(例えば仕事)があり、それをしながらスマートフォンでメールを読んだり返信したりしていなければいけない。ドイツで有名な「ながら族」はメルケル首相である。議会で野党の政治家が演説を始めると、彼女はスマートフォンを取り出し、何かし始める。退席しない以上、彼女は演説も聞いているはずである。

前回の「タイムマネジメント-ドイツ人のメンタリティー(3)」(2017年4月11日付掲載)で記したように、多くのドイツ人は複数の仕事を同時にするマルチタスクが苦手で、モノクロニック的に課題を一つ一つ順番に片付けていく。でも多数の人がメルケル首相のように「ながら族」になると、マルチタスクも得意になり、ドイツ人の仕事の段取りも、またタイムマネジメントも変わるかもしれない。

現在、ドイツで仕事と関連してスマートフォンの「ながら族」が問題視されるのは、職場でのミーティングのときである。200社の人事部長を対象としたあるアンケート調査では、半数以上が「ミーティング中にメールチェックをし、返信までする人がいる」と回答。「これを不愉快と感じる」との回答は40%で、「何とも思わない」との回答は14%にとどまった1。すぐに回答したいメールもあるという点を考慮し、コーヒーブレークに倣って「メールブレーク」の導入を実施した職場もあるそうだ。

議論がこのレベルにとどまる限り、モノクロニック的に課題を順番に片付けていくドイツ人の仕事の進め方が変わるようには思えない。ドイツ人がモノクロニック文化に属する重要な背景の一つは、どうでもいいことを聞き流したり、見過ごしたりしておくことができないことである。しかし彼らもスマートフォンによる「ながら族」を続け、外界からの刺激にさらされていると、長期的にはこの点も変わるかもしれない。

スマートフォンが仕事に及ぼす影響について「ながら族」のことよりも活発に議論されることがある。それは今回のテーマとも関係がある。ドイツでは仕事と私生活とを切り離して、両者の間に関係が生まれないようにするメカニズムが働くことが多い。しかし携帯電話やスマートフォンの登場によって、職場を離れても仕事と私生活を切り離すことが難しくなっている。これは今、労働組合などが頭を悩ませている問題でもある。

仕事と私生活を切り離すメカニズム
「タイムマネジメント-ドイツ人のメンタリティー(3)」(2017年4月11日付掲載)の中で、部下のドイツ人と仕事の後に食事に行きたがる中国人上司の例を挙げた。彼は何度も暇がないと断られるうちに、部下がそんなことを言うのは口実で、真意は自分と近い関係になりたくないからではないかと疑うようになる。
この例に関して、予定表を埋めることに努めるドイツ人のタイムマネジメントをその原因として指摘したが、この中国人上司の疑いも全く間違っているわけではない。でもそれは、すでに述べたように仕事と私生活を切り離すメカニズムが働いているためだと考えることもできる。

日本をはじめ多くの国では仕事の後、職場の同僚同士で酒場や飲食店に出掛けて飲食を共にする。そこで仕事や同僚の話をしたり、時には上役の悪口を言ったりする。このような付き合いの習慣はドイツではあまり見られない。彼らは軽々しく同僚を誘うこともないし、誘われても応じない。そうであるのは、この国の人々に仕事と私生活とを切り離すメカニズムが機能しているからである。
ドイツの企業で同僚との個人的な接触を望むのは、多くの場合外国人で、ドイツ人から相手にされないのが普通である。大きな社員食堂で1人だけでぼそぼそ食べていると、話し掛けてくれるのは外国人の同僚であることが多い。

これまで繰り返してきたが、ドイツの職場で「人間関係は二の次」であるのは(「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載))、私的領域こそ個人的な関係を持つ場所だと考えられているからである。この国の人々にスモールトークや世間話を職場で避ける傾向があるのは、このようなコミュニケーションが私的なものと位置付けられていて、仕事の場にふさわしくないと思われているからである。

別人のようになる
このような事情から、職場で何年も一緒であっても同僚はあくまでも「仕事の同僚」にとどまり、距離を保って付き合うため、人間関係は普通あまり深くならない。これはドイツ人には当たり前のことだが、外国人の中にはこの点を気にする人もいる。以下の例もそのことを示す。

例1:勤務後も自分を覚えていてくれる
あるチェコ人の男性は、プラハで働いている。彼にはドイツ人の同僚がたくさんいて、彼らとの関係は良好であり、また個人的に好感を覚えないでもない。とはいっても彼らとの関係は仕事の間だけに限定されている。長年同じ職場にいるのだが、仕事が終わった後、これまで一度も一緒にビールを飲んだことがない。彼によると、ドイツ人の同僚との素晴らしい関係も帰宅の途についた途端終了するという。

例2:別人のようになる
ドイツで暮らすあるブラジル人の例である。彼には、仕事の上でよく関係を持つドイツ人の同僚がいた。そのブラジル人は彼に好感を覚えていたが、もう何年も知っているというのに、彼と自分の間の距離が縮まらないことに不満を覚えていた。ある日、そのブラジル人は彼とスカッシュをする。驚いたことに同僚のドイツ人は別人のようになった。いつも物静かなドイツ人の同僚は元気に大声を出し、冗談を言う。また彼は勝とうとして挑んでくる。こうして2人で楽しんだ後、一緒にビールを飲んだ。そのブラジル人は、ようやくこのドイツ人の同僚と打ち解けることができたと喜んだ。

翌日出社したそのブラジル人は、そのドイツ人の同僚に会って喜び、前日のスカッシュのことで冗談を言った。しかし彼は全然乗ってこない。「今からミーティングがあり、準備しなければいけない」と言う。また元の同僚に戻ってしまったようで、そのブラジル人はどう考えていいのか分からず途方に暮れた。

例3:自宅に招待されたポルトガル人
ドイツの本社で働いているあるポルトガル人のエンジニアの話である。ドイツ人の同僚は仕事熱心で尊敬できるだけでなく、本当に親切である。とはいっても、いつまでたっても人間同士の「温かい関係」にならない。ある日、そのポルトガル人は同僚の1人から自宅に招待される。奥さんの手料理を振る舞われ、子どもたちとも遊んだ。仕事と関係のある話はせずスポーツをはじめいろいろな話をし、楽しいひとときを過ごすことができた。彼は、この同僚と親しくなれた気がした。

ところが、翌日の職場でのドイツ人の同僚の様子は全く違うのである。その同僚はいつもと同じように親切であるが、個人的な話題は一切避ける。前の状態に戻ってしまったようだ。そのポルトガル人は今でもその同僚が「外国人に親切であるべき」という義務感から自分を自宅に招待してくれたのではないかと疑っている。

以上の例から分かるようにドイツの場合、職場での同僚との関係は私生活での知人・友人関係に発展しにくい。そうであるのは、すでに述べたように仕事と私生活を切り離すメカニズムが作動するからである。ドイツ人は私生活の世界を持っているので問題がない。一方、そうでない外国人はドイツ社会を自分が育った国の社会と同一視して期待感を抱くものの、失望することが多い。個人的な交友関係を求める人に勧められることは、昔から決まっている。それは、どこの町にもある同好会や講習会への参加だ。どちらも仕事とは無関係な場で、趣味や関心が共通する者同士が定期的に会う以上、個人的な友好関係が生まれるのには理想的な環境といえる。

仕事と私生活を切り離すメカニズムが働いている以上、ドイツの職場では、同僚については名前、独身か所帯持ちか、サッカーファンかどうかといった大ざっぱなことしか知らないのが普通である。職場では、従業員の私生活にあまり立ち入るべきでないとされている。次の例もこのような事情を示す。

例4:病気見舞いの電話をした日本人上司
ある日本人上司は、部下が病気で3日間出勤しなかったので、彼の家にお見舞いの電話をかけた。電話に出てきた部下は上司の気配りに感謝する様子もなく、自分は規則通りに診断書を付けて病欠届けを提出していると答え、取り付く島もなかった。その日本人上司は部下の病状を心配して電話をかけたのに、自分の善意が理解されないことに驚いた。

ここまで、ドイツ人には仕事と私生活を切り離すメカニズムが機能すると述べてきた。しかし、いつもこの説明通りになるわけでない。それは職場での男女関係である。文化的問題を克服するのが異文化研究の目的であるためか、この例外的な現象はあまり注目されない。ハンブルクの世論調査機関ゲーヴィスによると2、全体の18%、つまりほぼ5人に1人は同僚とそのような関係を持ったことがあり、またそのうち4人に1人の割合で結婚につながった。

他の国の数字がないので、このようなことがドイツでは多いとはいえないかもしれない。しかし本来、男女関係は仕事でなく私的なことである以上、仕事と私生活を切り離すメカニズムが働いて、上記の数字が低くてもよさそうな気がしないでもない。このような事態は、熱心に働くドイツ人のイメージに反するかもしれない。しかし、もし企業側が経営的観点からこのような傾向にブレーキをかけようとすると、労働組合や裁判所を敵に回さなければいけないかもしれない3

完璧に役目を果たす
多くの国で、従業員に私生活において十分休息してもらい、またフラストレーションを解消し、元気になって再び職場で働いてもらうことが期待されている。この点についてはドイツも同じである。ただし、仕事と私生活を切り離すメカニズムが強力に働くためか、人々の意識の中で両者の世界が対称になっているように思われる。例えば、きちんと働いている人々は休暇もきちんと取るという考え方がそうだ。

ということは、職場で力いっぱい仕事をすることと、私生活の世界でも頑張ることは対応しながら釣り合いを保っているので対称関係になっていることになる。似た関係を指す言葉として日本にも「よく遊び、よく学べ」がある。日本の「猛烈サラリーマン」の中には休みの日に自宅で過ごさず、難度の高い登山や岩登り、山スキーなど余暇を「猛烈に」過ごす人も少なくない。反対に、このような休みの日の過ごし方に眉をひそめる人は、人間の総エネルギー量が限られていて、休暇の方にエネルギーが使われたら、その分だけ仕事にエネルギーが回らないと心配しているのかもしれない。

ドイツ社会で離れ離れの二つの世界、仕事と私生活は異なった尺度、論理や性格を持っている。前者は公的世界で、仕事中心であるために、例えば下降気味の売り上げに知らん顔していることができないという意味で、客観的事実や合理性が重要である。そこでは各自が大抵は自分に与えられた仕事をしている以上、それぞれ自分の役割を果たしているだけである。

ドイツでは、仕事の世界で感情をあらわにするのは自制心に欠けるとされ、人間として弱いと見られかねない。もちろん規則や秩序、また契約が守られなかったら彼らも怒るが、それでも職場ではできるだけ自制することが期待されていて、感情表現は許容される枠の中に収まっていないといけない。この結果、職場では大声は聞こえないし、これまで何度も触れたように雑談もしないので、職場は本当に静かである。感情をあまり表現しないため、別の文化圏の人にはいつも不機嫌だと誤解されることもある。

一方、私生活の世界の方では、役割でなく個人としての人間関係が支配的であるために、情緒的な表現を制約する枠はない。ただし職場では感情を抑える傾向が強いためか、極端から極端に走り、隣国の人々に情緒過多とか自己憐憫と感じられることもあるようだ。

例5:会社に忠実
あるチェコ人が働いていたチェコの企業は、1990年代にドイツの企業に吸収合併された。彼は現在もその企業に在籍しており、長年、その企業の浮き沈みを経験した。吸収合併後、重要な事業分野が閉鎖された。しばらくして別の企業と合併し、その後間もなくそれまで重要とされていた別の事業分野も整理された。そしてそれ以降も、似たようなことが繰り返された。そのたびにそのチェコ人は、これも市場経済で仕方がないと思っていた。
ところが、彼らのドイツ人上司はいつも「こうなったのも、私たちに起こり得ることの中では一番良いケースのように思われる」と言う。このドイツ人上司にとってもこれらのリストラは不安で厄介なことであるにもかかわらず、彼は自分が勤める会社に対して忠実で、いつも肯定的な発言をする。ドイツ人上司のこのような態度を、そのチェコ人は理解できないでいる。

そのチェコ人はリストラを肯定できないが、これも市場経済で仕方がないと諦める。そのドイツ人上司については、本社の命令に従い、仕方なしにやっているように思えなくもない。とはいえ、このチェコ人が奇妙に思うのは、このドイツ人があまりにも上司としての役割を見事に演じるために、その背後にある人間としての悩みが全く伝わってこない点である。こうであるのは、このドイツ人に仕事と私生活を切り離すメカニズムがすっかり身に付いていて、彼自身に単に役目を果たしているだけだという意識があまりないからだ。
欧州の中でドイツ人というと優等生タイプばかりだとか、また人間味が感じられないとか文句を言われることがあるのも、似たような事情からであろう。

フォーマルVSインフォーマル
仕事と私生活を切り離すメカニズムと関連して重要な区別がある。それは、ドイツ人がフォーマルな場合とそうでない場合を厳格に区別する点である。前者は社内的なルールや秩序に従って正式なものと承認されている場合や状況である。そうでない場合はインフォーマルである。

コミュニケーションを例に挙げれば、ミーティングや会議がそうだ。多くの場合、職場にはそのための空間が設けられており、会議室とかミーティングルームと呼ばれている。社内基準があって、そこでの発言や議決は後で管理できるよう記録されていなければならない。ITが発達した今では、プロジェクトによって社内にそのためのメーリングリストが設けられることも多い。

ドイツでは、このように社内において正式なものと承認されているのがフォーマルなコミュニケーションの場であり、公式チャネルである。そうでないのはインフォーマルな場合で、私生活の一部に準じるものであり、そこでの発言は「私語」に近い。重要な地位にある人、例えば、ボードメンバーが社内のベランダで何か発言しても、公式チャネルを経由していない以上はインフォーマルにとどまり、重要視される度合いは別の国よりはるかに低い。

ドイツの組織では、インフォーマルなチャネルが公式チャネルの代わりになることはない。例えば、社内で序列の高い人から何かするように言われても、部下として公式チャネルを通してもらいたいと期待するのが普通である。紹介者やコネはインフォーマルなチャネルである。いろいろ面倒な思いをしてそのようなルートを使っても、話は結局、公式チャネルに回されるだけである。企業をはじめ多くの組織は、諜報(ちょうほう)機関や軍事関係の組織でもないので、公式チャネルについて外部の人が聞けばすぐに教えてくれるのが普通である。

以上は通常の業務のときのことであり、何か企業に突発的な事態が発生して公式チャネルが機能しなくなったときにはインフォーマルなチャネルが使われる。しかしこれまで何度も強調したように、ドイツ人は可能な限り不測の事態を避けようとして準備する。

次の例は通常業務のケースである。社内の廊下で小耳に挟んだことであろうが、あるいは社外の誰かが通訳を介して言ったことであろうが、話が公式チャネルに入ってこない限り、組織からは無視される危険があることが分かる。

例6:伝達は正式に
あるドイツ企業とポーランド企業の関係が難航している。その理由は、ポーランド企業からいろいろな情報と書類がドイツ企業に出されることが取り決められていたにもかかわらず、実行されないからである。ところがそのポーランド企業によると、ドイツ企業の主張は不当であるそうだ。というのは、求められたものは全部いろいろな機会にドイツ企業の関係者に伝えたり、渡したりしたからである。ところが、ドイツ企業側はもらっていないと言い張る。これは、そのドイツ企業がポーランド企業から受け取ったことを忘れたり、理解できなかったりしたからだという。それに対して、ドイツ企業は取り決めにある順番通りに渡すよう要求し、そうしなかったポーランド企業には、プロ意識が欠如していると非難する。また、ポーランド企業の方もそのドイツ企業を傲慢(ごうまん)だと応酬する。

そのドイツ企業にとって、正式に伝達されず公式チャネルに入ってこない情報はきちんと存在していないことになる。とはいってもこれはドイツ企業側の内部事情であり、本来、ポーランド企業にその内部事情が知られていることを期待することはできない。にもかかわらず「プロ意識の欠如」を難じるのは、そのポーランド企業も自社と同じように組織されていると勝手に思っていることになるという。奇妙なことに、そのポーランド企業の主張も似たような話で、ドイツ企業も自分たちと同じように機能すると思い込んでいる。

これは「人間関係は二の次-ドイツ人のメンタリティー(1)」(2017年3月2日付掲載)の冒頭で指摘したように、他人を見ていると思っているが本当は鏡の中の自分の姿を眺めているのに似ていて、典型的な文化摩擦といえる。異文化研究の成果によって売り上げを増大させることはできないが、それでも不要な誤解や厄介な感情のもつれを前もって避けるのに少しは役立つかもしれない。

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1 http://www.faz.net/aktuell/beruf-chance/arbeitswelt/smartphone-besprechungen-unerwuenscht-13418669.html
2 http://www.tagesspiegel.de/weltspiegel/beziehungen-am-arbeitsplatz-gelegenheit-macht-liebe/1641530.html
3 http://www.geocities.jp/tanminoguchi/20050621.htm

※本記事は、特定の国民をステレオタイプに当てはめることを意図したものではありません。

M305-0042
(2017年5月27日作成)

欧州 美濃口坦氏