父親不在の幼年時代

[第191回]父親不在の幼年時代@ミュンヘン

美濃口坦 翻訳家兼ライター

photo: Semba Satoru

『Raumpatrouille(宇宙パトロール)』の著者のマティアス・ブラントは1961年生まれの著名な俳優。60年代後半から、当時の西ドイツの首都・ボンで過ごした幼年時代を題材にした自伝的小説で、読み応えがある。初めての小説とはとても思えない。

主人公の少年が住む郊外の「白い家」には、庭に警備の警官の詰め所があった。なぜなら父親のウィリー・ブラントは外相を務め、その後首相を歴任した政治家なのだ。多忙な父親は小説の中であまり登場しない。有名な父親を思い浮かべてしまうドイツの読者より、日本人の読者の方が父親不在の幼年時代を描いたこの小説の世界に入っていきやすいかもしれない。

装丁は、宇宙服を着た少年が河畔に立っている図柄だ。横に座っている犬は主人公の3歳の誕生日からいっしょに暮らし、独りでいることが多い主人公に対して強い保護本能をもつ。一度など頭をなでられるのが嫌いな主人公の気持ちを察して、「子供好き」を演じる外務省の役人の急所にかみついた。

主人公は、3人の宇宙飛行士を乗せたアポロ11号が人類初の月面着陸に成功したことに感動して、教科書のためのお金で宇宙服を買った。その後、何週間もボロボロになるまで着たのだが、その間、彼は自分を「4人目」の宇宙飛行士だという空想にひたっていた。誰かに憧れ、「自己同一化」するのは、子供にはよくある。

主人公のもう一つの特徴は、「自分が存在しているというのは錯覚で、どこか高い場所から自分を眺めているだけだ」という離人感に襲われる点だ。心理学では現実喪失につながると心配される症状だが、そうならなかったのは、現実の自分からの遊離を鋭く意識したからである。

著者は、どんな役にもなりきれる俳優として強烈な印象をあたえるが、一方で日常生活ではまったく目立たない人なのだそうだ。小説を読むと、後にこのような俳優になったことに納得がいく。

題名の『宇宙パトロール』は、66年からテレビで放映された西ドイツの人気SFシリーズ。

『Im Wald』題名の意味する「森の中で」、キャンピングカーが爆発、1人目の死体が発見される。さらには、ホスピスで老婆が殺される。作者のネレ・ノイハウスはドイツの人気女性推理作家で、出版後たちまちベストテン入りした。

彼女の小説は、人物がていねいに描かれているだけでなく、現在進行中の事件が過去の事件と関連していて、現在の殺人も過去の殺人も解決しなければいけない。これは一石二鳥で一冊読んでも二冊分に相当し、充実した読書体験になるとノイハウスのファンはほめる。

『Himmelhorn(ヒンメルホルン)』のクルプフル/コブルも人気推理作家である。ヒンメルホルンとは西南ドイツにある山。岩場ではなく草が生えたところを登攀するため、難度が高いので有名。遠足した人気者のクルフティンガー刑事が3人の死体を発見して事件がはじまる。

ノイハウスと、クルプフル/コブルには共通点がある。それは、どちらも「地域推理小説」というジャンルに属するとされていることだ。どちらもシリーズで、殺人の舞台が同一地域で、捜査刑事もいつも同じだ。前者はフランクフルトの近くのタウヌス地域で、人口4万人のホーフハイム市の2人の刑事が捜査を担当する。後者の舞台は西南ドイツのアルゴイ地方で、クルフティンガー刑事が捜査する。

このタイプの推理小説は今やブームで、この国には自前の推理小説をもっていない町や地域はないとさえいわれている。出版社にとって、地元の人が買ってくれるのはリスクヘッジになる。昔はバカンスで外国へ行く人が多かったのが、今や国内で過ごす人が増加中といわれる。

この国には、地域に根差したもの、土着的なものを求める傾向がいつもあった。ところが、この伝統がナチスとむすびつくとされてタブー視された。そこで推理小説で人々の需要にこたえているといわれる。

私には、殺し合わないで本を読んでいるのはいいことだと思われる。

ドイツのベストセラー(フィクション部門)

1月12日付Der Spiegel紙より


1.   Harry Potter und das verwunschene Kind

J.K. Rowling J.K.ロ−リング

ハリポタ・シリーズの第8巻で、現時点では最終巻。

2.  Das Paket

Sebastian Fitzek セバスチャン・フィツェック

レイプされてその恐怖から不安の毎日をおくる女性精神科医。

3.   Im Wald

Nele Neuhaus ネレ・ノイハウス

火を出したキャンピングカーで死体発見。その後も殺人が続く。

4.  Totenfang

Simon Beckett サイモン・ベケット

死体の確認に固執する法人類学者デーヴィット・ハンターの活躍。

5.   Widerfahrnis

Bodo Kirchhoff

ドイツ書籍賞今年度受賞作。誰も殺されなくても面白い。

6.   Meine geniale Freundin

Elena Ferrante エレナ・フェランテ

女性の友情の感動小説。

7.   Himmelhorn

Volker Klüpfel /Michael Kobr フォルカー・クルプフル/ミハイル・コブル

西南ドイツ・アルプスの登山にまつわる殺人事件の解明。

8.  Nussschale

Ian McEwan イアン・マキューアン

物語を胎児の視点から語らせる奇想天外なハムレット翻案。

9.   Raumpatrouille

Matthias Brandt  マティアス・ブラント

有名な政治家を父にもち、演技力に定評のある俳優の自伝的小説。

10.  Die Entscheidung

Charlotte Link  シャルロッテ・リンク

落ち着いた生活をしたかった中年男が巻き込まれる厄介な事件。

 

Minoguchi Tan

翻訳家兼ライター。1974年にミュンヘンに移住。80年から約20年、書店を経営。共訳書にアイベスフェルト『比較行動学』(みすず書房)。