「小さな人々へ」の警戒感

[第186回]「小さな人々」への警戒感@ミュンヘン

美濃口担 翻訳家兼ライター

photo:Senba Satoru

ハンス・ファラダの『Kleiner Mann-was nun?』は1932年に出版され、ドイツだけでなく英語圏でもベストセラーになった小説で、今でもよく読まれている。ドイツ文学者からは娯楽小説扱いされるが、歴史家はナチが台頭する当時のドイツを理解するために読むことを勧める。

主人公の男女・ペーネベルクとレムヒェンは避妊処置を施してもらおうと産婦人科医を訪れるが妊娠2カ月だといわれる。当時は世界大恐慌で失業者がちまたにあふれ、子育ては困難な時代だった。ふたりは結婚し、北ドイツの町で所帯をかまえるが、夫が失業して彼の母親が住むベルリンに移住する。妻は無事に出産するが、いったん職を得た夫はまた失業する……。

小説の題名を直訳すると「小さな男よ 今からどうなる?」だが、この「小さな男」は小柄な男ではなく、特に財産も地位も教育もない普通の人という意味で、これが複数形になると、「小さな人々」となり、日本語の「庶民」や「大衆」に近い意味を持つ。

最近、この「小さな人々」を警戒する声が聞かれる。彼らの被害意識を、欧州で台頭する右翼ポピュリズムが利用し、外国人や難民に反感を向けるように煽動していると説明される。でもこの批判には見当違いな点があるような気がする。

ファラダの小説にもナチが登場するが、彼らの反ユダヤ主義が重要だった印象はもてない。ペーネベルクとレムヒェンら大多数の国民にとって大事だったのは失業であり経済問題だった。ヒトラーは失業をなくすことができたからこそ救い主とされて、その後の不幸につながった。

欧州が現在抱える問題も、貧富の格差拡大や非正規雇用の増大といった経済的な側面に起因するのではないか。人種差別を煽る右翼ポピュリズムも、これに対する批判も、実は本当に解決すべき厄介な問題から人々の目をそらさせているだけのように思えてしかたがない。

ベネディクト・ウェルスの『Vom Ende der Einsamkeit(孤独の終わり)』は、ファラダと反対に、娯楽小説と間違えられることなど決してない作品で、30歳になってまだ間もない著者が書いた4番目の小説である。23歳のときに有名な出版社から小説が出て以来、評論家から才能豊かな作家として、いつも絶賛され、どの本も出版される度にベストセラーになる。

今回の小説は、突然交通事故で両親を失ってしまった子供たちの話である。事故当時11歳だった一番下の男の子のジュールの視点から、彼自身だけでなく、13歳の兄のマーティ、14歳の姉のリスがそれぞれ40代になるまでどのように生きたかが語られる。

両親を失った途端、3人は全寮制の学校に移される。それまでクラスの中心だったジュールは目立たないように隅っこに座る少年に変貌する。もともと部屋に閉じこもることが多かった兄のマーティはこの傾向をますます強める。美貌で早熟の姉のリスは性的アバンチュールとドラッグに走り、学校をやめる。

この小説が面白いのは、両親をうしなった子どもたちが寄り添って生きるのでなく、離ればなれになっていくことである。そうなるのは喪失の痛みに触れないようにするためであると想像される。

小説は、喪失の克服のための処方としてにいっしょに痛みを感じると同時に親の立場の追体験を勧めているように思われる。

ユーリ・ツェーの『Unterleuten(ウンターロイテン)』の舞台は、ベルリンからあまり遠くない架空の村、旧東独のウンターロイテンである。話は風力発電所建設にまつわる紛争で、そこには、共産主義と資本主義の間に置かれた分断国家になった1945年以来の歴史も、また現在どんどん先行する資本主義の現実について行けなくなっている現在の政治体制も反映していて面白い。

著者は法律家で、政治的関心が強く、発言も多い。小説のジャンルの伝統的なすみ分けには満足できないようで、今回も推理小説的要素が取り入れられている。

Minoguchi Tan

翻訳家兼ライター。1974年にミュンヘンに移住。80年から約20年、書店を経営。共訳書にアイベスフェルト『比較行動学』(みすず書房)。