「現金の廃止」を求める人々

発行:2015/07/02

概要

欧州では、キャッシュレス化がかなり前から進行している。特に北欧圏でその流れが顕著だ。一方、ドイツ人は「カード嫌い」の傾向が強いとされる。キャッシュレス化の流れとは別に、現在このテーマが議論されるのは、量的緩和(QE)を徹底するために「現金の廃止」が求められているからだ。

M304-0014-1欧州では、キャッシュレス化がかなり前から進行している。特に北欧圏でその流れが顕著だが、イタリア、フランスなども現金決済の法定上限額を設けるなどキャッシュレス化を進めている。一方、ドイツ人は「カード嫌い」の傾向が強いとされる。キャッシュレス化の流れとは別に、現在このテーマが議論されるのは、量的緩和(QE)を徹底するために「現金の廃止」が求められているからだ。

筆者が子どものときに、日本でもらったお年玉。紙の袋に入っていたのは500円札だった。その後、毎月もらうようになったお小遣い。ポケットの中の硬貨を触りながら歩いたり、時々、全財産を取り出して数えたりしたのが思い出される。

さて、ここからはドイツでの話である。1917年生まれの義父は、ユーロ導入直前のクリスマスに、ドイツマルクの8種類の硬貨を小さな額に収めて4人の子どもと8人の孫たちにプレゼントしてくれた(写真)。インフレの影響で無価値になったライヒスマルクに代わり登場したドイツマルクは、戦後西ドイツの繁栄の象徴であり、彼には惜別の思いがあったからだ。このような庶民感情は当時、知識人からは「ドイツ・マルク・ナショナリズム」と嘲笑された。

お金は、大多数の人々にとって重要なものである。働いて稼ぎ、貯めては使い、また自分がどのくらいのお金を持っているかを計算して、安心したり不安に駆られたりする。お金は金額が重要だが、それは数字にすぎない。抽象的な数字は、見たり触ったりできる紙幣や硬貨という「物」とくっついている。この「物」を見れば、数字なしでも幾らあるのか一目で分かる。現金で買い物をして、手元にあり過ぎると銀行に持っていき、自分の口座に振り込む。現金こそ「天下の回りもの」の出発点であり、また生活の主役でもあった。

キャッシュレス先進国・北欧諸国の現状
この現金・キャッシュの運命については、かなり前から議論されている。また、ドイツでも決済の電子化が進行し、スーパーでもカードで支払いをする人をよく見掛けるようになった。しかし、ドイツ国民の多くは、キャッシュレスというと北欧のことばかりを連想するようだ。例えばデンマークでは、小売店(食料品店や医療機関などは除く)は、2016年から現金での支払いを拒むことができる。2017年初頭からは紙幣も印刷されないし、硬貨も製造されない。現金は流通分で間に合い、需要が減るからだと説明されている。必要になったらそのときは、紙幣の印刷を民間の会社に委託することにしているそうだ。

また、スウェーデンの旅行案内によると、キャッシュレス先進国の同国では、駅のトイレや公営の医療機関などで現金での支払いができないという。また、ストックホルムの空港にあるホテルでは、400スウェーデンクローネ(約5,700円)以上を現金で支払うと、50スウェーデンクローネ(約710円)の手数料を取られる。スウェーデンでは、現金決済での買い物は全体の30%以下であるという。一方、ドイツにおいては、現金決済での買い物は全体の80%以上を占めるといわれる。

ちなみに、現金自動預払機(ATM)は、2011年にはユーロ圏で人口10万人当たり9.7台あった。スウェーデンでは同3.8台で、過去2年間でその台数は6分の1に減少している。また、銀行についても2010~2012年に現金を取り扱う支店が490支店も少なくなっただけでなく、現在、1週間に3支店の割合で現金を取り扱わなくなっている。

ドイツ人の「カード嫌い」の理由
上述したように、スウェーデンはキャッシュレス社会への道を着実に歩んでいる1。スウェーデンやデンマークなどの北欧諸国だけでなく、フランスでは2015年9月から、現金決済の法定上限額が3,000ユーロから1,000ユーロに、外国人に対しては1万5000ユーロから1万ユーロに引き下げられる。この他、イタリア、チェコ、ギリシャ、ブルガリアなども現金決済の法定上限額を設けている。また、現金決済の法定上限額は設けられていないものの、実質的には「キャッシュお断り」の国がある。スペインやポルトガルなどがそうだ。反対に、ドイツやオーストリアのように現金決済を制限する気配があまり感じられない国もある。

決済を電子化すると資金の流れを追跡でき、テロリストを「兵糧攻め」にすることも、脱税者を追い詰めることも、不法就労やマネーロンダリング(資金洗浄)を防止することもできる。
また「ダーティーマネー」とよくいわれるが「不正な金」でなくても紙幣には平均3,000種の細菌が付着しており、皮膚の吹き出物や消化器の潰瘍を引き起こすという。また、抗生物質が効かない遺伝子まで含んでいるそうで2、その点で現金は不衛生ともいえる。

次はコストの問題だ。紙幣と硬貨の供給に必要な80億ユーロをはじめ、その他のコストを加算すると、現金の流通には年間125億ユーロも掛かる。これは、ドイツ国民1人当たり150ユーロの負担に相当する。上記の全体額には、人件費や保険をはじめとする現金の保管と輸送のために小売り側に発生する67億ユーロも含まれている。ところが、キャッシュレスにするとその総コストは約8億ユーロだけで済むため、その分、経済の活性化に役立つことになる3

キャッシュレス化には、これほどいろいろな利点があるというのに、ドイツ国民は現金に固執する。少なくとも、この国のメディアはそう報道する。ただし誤解を招かないように強調すると、各種の口座振替も、引き落としも現金を経由しない。これらの支払いを考慮すると、ドイツにおけるキャッシュレス決済の割合は隣国と比べて小さくない。ドイツ人の多くが消極的なのは、小売りでのカード払いである。

「カード嫌い」はドイツ人の価値観と関係があるかもしれない。最近は少し変わったが、昔は格式の高いレストランではカードでの支払いはできず、カードを利用できるのは観光客相手の店と決まっていた。カード決済の場合は、顧客が支払った額の全額が小売り側に行かないこともよく知られていて、真面目に物作りに励んでいる人々や顧客にサービスを提供する人々に対する侮辱だと思われる傾向もあった。

QEを徹底したい
今、現金の廃止や現金決済に関する制限などが話題になっているが、これは国民の考え方の相違うんぬんといった悠長な話ではない。ユーロ圏、スイス、デンマーク、スウェーデンではマイナス金利に突入している。QEを徹底するためにこのマイナス幅がさらに広がり、預金者がそれを感じるようになると、預金者が一斉に預金を下ろし、下手をするとバンクランの危険がある。ところが、現金廃止によってこのリスクを封じ込めることができる。

2015年5月18日にロンドンで、非公開のシンポジウムがスイス国立銀行(SNB)とインペリアル・カレッジ・ロンドンによって共催され、主要国の中央銀行の代表者や経済関係者がこのテーマについて議論した4。こうなると、北欧の駅のトイレの話もがぜん身近になり、ドイツのメディアも盛んに話題にし始める。

まず、冒頭で触れた一般の人々の現金(紙幣と硬貨)との情緒的な結び付きであるが、これは軽視できない。例えば、英国の世論調査機関YouGovが1,111人のドイツ人を対象に2015年5月19~22日に実施した世論調査がある。「あなたは(デンマークのように)ドイツでも現金による支払いを拒否できる立法に賛成しますか。それとも反対ですか」という質問に対して、74%が反対と回答している(図表1)。ということは、多くの人々が将来的にも現金で支払いを行いたいと考えているのである。

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出所:YouGov https://yougov.de/news/2015/05/27/sicher-und-gut-fur-die-ubersicht-deutsche-gegen-ba/

スウェーデンは、ドイツよりキャッシュレス化が進行している。スウェーデンで実施された調査では、回答者の半数が「20年後には現金のない社会が実現している」と答えている。面白いのは、このような回答をしながらも、40%の人々が「物理的に存在する決済手段(現金)がなくなることを想像できない」と述べ「現金の方が日常に根差し、カードより支出も把握でき、第三者にも自分の支出が知られない。そのために安心した気持ちを抱くことができる」と複雑な気持ちを説明している5

ロンドンでの上記のシンポジウムでどんな議論があったかは公表されていないが、出席したケネス・ロゴフ氏やウィレム・ブイター氏など米国のエコノミストのこれまでの発言からも、SNBに近いノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥングの記事からも想像できないことはない6

会議のテーマは「ゼロ金利境界線を動かす」ための可能性と条件についての議論で「現金の廃止」は初めから議題に上っていなかったそうだ。議論が集中したのは二つの可能性で、その一つは、現金通貨と預金通貨の間に交換レートを設けることである。もう一つの可能性は、定期的に現金所持者に課税する措置を設けることであるが、どちらの場合も技術的に難しい面があり、決済のシステムを複雑にし、効率の低下が危ぶまれたとのことである(効率が低下したら「天下の回りもの」も回らなくなるのではないだろうか)。

現金の廃止や現金決済に関する制限によってプライバシーがガラス張りになる以上、民主主義・法治主義が機能し、公平であり、人権が守られているという信頼感を市民が国家に対して持つことができないといけない。このように考えると、北欧でキャッシュレス社会が最も進展しているのも偶然でないだろう。

市民と国家の信頼関係に基づいて徐々に展開してきたキャッシュレス化を利用して、大昔から役に立っている現金の廃止を、それもいつまで続くか分からないQEの効果を強めるために実現しようとするのは、とてつもない人工的な実験であるように思われる。このようなことは自国で実現する可能性が極めて低いとみられるために、他の国で行ってほしいと思うのかもしれないが、それは少し虫が良過ぎる話かもしれない。

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1 http://www.nzz.ch/wirtschaft/wirtschaftspolitik/schweden-auf-dem-weg-zur-bargeldlosen-gesellschaft-1.18199651
2 http://www.welt.de/wall-street-journal/article127152161/Unser-Geld-ist-viel-dreckiger-als-gedacht.html
3 http://www.wiwo.de/finanzen/geldanlage/studie-zum-zahlungsverkehr-bargeld-ist-teurer-als-kartenzahlung/8232850.html
4 http://wwwf.imperial.ac.uk/business-school/removing-the-zero-lower-bound-on-interest-rates-conference/
5 http://www.nzz.ch/wirtschaft/wirtschaftspolitik/schweden-auf-dem-weg-zur-bargeldlosen-gesellschaft-1.18199651
6 http://www.nzz.ch/finanzen/devisen-und-rohstoffe/devisen/die-idee-des-bargeldverbots-steht-fuer-eine-irrsinnige-welt-1.18551125
M304-0014
(2015年6月9日作成)