ヴォールレーベンや、イタリア人のコッチャは人間と他の動物の相違だけでなく、動物と植物の違うことを強調する考え方の根底に何かキリスト教的な世界像を感じています。これによると、一番上に(一神教の)神がいて、その下にその神が自分に似せてつくった人間が、その下に人間ではない動物が来て、一番下に動くことができず、空間に従うしかない植物が来ます。
正直いって、私も、西洋人がこのような世界像を抱いていると漠然と感じてきました。この世界像は彼らには吐いたり吸ったりする空気のように自明で、そのためにこの枠で現実を眺めていることが意識されません。また彼らが本のなかで自分自身がそのように現実を見ていると書いたりしていません。どちらかというと、話したり、特に植民地主義について議論したりしているときに、感じられることです。また欧州以外の地域についての報道を読んでいるときにも行間に現れます。
例えば、アフリカでも、欧米人が来る前に住民が彼らなりのやり方で自然を利用したりして暮らしていたと思われます。ところが、欧米人は自分たちこそきちんと支配し管理できると思ったり、また下手をすると、住民に上記の世界像を適用し、彼らがじゅうぶん「神に似せて」つくられていないと考えたりする傾向がありました。国際法がはじまったときに「欧州の公法」の延長で、欧州以外の地域は「欧州列強」に支配されていない「無人地帯」のように見なされたのがその例です。
驚くべきことは、この奇妙な考え方は、ヨーロッパ中心主義として、ザッシャ・ローボが指摘しているように、今でも多くの人々の意識を支配しています。ローボも、スノーデンが仰天した中国の監視体制に触れて、住民が反対しないで支持していることを指摘します。この現象は従来なら、中国人の人権意識の欠如や民主主義の未熟として片付けられるのが普通でした。でもこれは「中国人はドイツ人でない」と主張しているのとあまり変わらないかもしれません。ところが、ローボは別な事情があるとして、二つの要因を指摘します。その一つは中国人が政治的イデオロギーでなく技術のほうを信頼しているという推定です。次は、一党独裁で腐敗している上のほうの人々に対して監視技術によってその行動の是正や制裁につながることが期待されているのが支持の理由だと説明しています。こちらのほうが、これまでの「中国人はドイツ人でない」より、正しいかそうでないかの議論ができて、私には建設的であるように思われます。